スヌーズレン002

4.デザインとは ”生活形態の無意識”
ある空間に自分が選択した物を自由に配して自分の好みに合った場所を作るという行為は歴史的に可能になったものであり、かつては生活空間に物は分かちがたく据えられており、物は独立して存在しませんでした。近代以降生活から「物」が抽象され、純粋に「物」が形作られるようになったことで、「デザイン」が始まりました。
デザインされた物が、部屋を自由に構成する(デザインする)という転倒が自明化したのです。
いったんそうなるとたちまち「デザインという仕事の目標は、人間の環境と人間の使う道具、さらに人間自身をも変革すること」(現実世界のためのデザイン)となり、われわれの生活の中に、ある思想によってデザインされた物たちが意図的に浸透していくこととなりました。要するに、物との関係で人を変えて行こうというものはすべて「デザイン」として括られるようになります。
ウイリアム・モリスの「アーツ&クラフツ」運動はそれに対するもっとも意識的で先駆的な運動でしょう。現在でもその手作業の系譜はエコロジーやATに受け継がれています。「製品がよりよい生活様式を実現するための道具として、どういう、またどれだけの価値を担っているかを見つけ出すのが、デザイナーの責任であり、またこのことの吟味が、一般にデザイン教育の基礎になるのでなければならない。」(生活とデザイン)という、物によって人の生活様式を変革しようという姿勢はやがて「規格化」につながり、合理化・大量生産をよび、個人というものを疎外してゆきます。
しかしやがてそのデザインは多様化・透明化し、個人主義的な思想・経済に伴ってわれわれの感性・感覚を深く支配してゆき、物によって自分を主張したり、持ち物によって人物が推し量られたりすることも自然となっていきました。(かつての体制的な階級を表す象徴としての物から完全に解かれ)
現在、その「デザイン」も過剰生産・過剰消費の市場経済システムの中で次第に変質し、思想的バックボーンを持たず単に差異を価値化したつかみ所の無いイメージを纏った物がいたるところに溢れ出ています。いろいろな場面で庶民を見ない政策などが批判されている昨今ですが、「日産はトヨタばかりを見てユーザーを見てこなかった」(カルロス・ゴーン)などに象徴されるように、ひたすら先行する商品の差異的バリエーションをコンピュータに蓄積された膨大なデータをもとに作り出していくことが主流となっていきました。
それに相まってデザインに対するイメージは錯綜し、感覚も麻痺してきています。どれも皆同じものだ。少し違うと思っても結局は皆同じものだ。小さな期待と失望の繰り返しの中に閉塞し人はニヒリスティックな感覚に取り込まれながら記号的レベルでの消費・所有欲をかきたてられています。そんな中、確かなデザイン思想を持った(新しい行為の発案にデザインが過不足なく結び付いている)商品として、出色の例はAppleのiPodに始まる製品でしょう。人びとの音楽の楽しみ方や行動様式に新たな自然なスタイルを与えてしまう力を持ったヒット作でした。これは先行するウォークマン・MDプレーヤーの提供してきた音楽消費スタイルを確実に変質させ、CDなどのアルバム概念を破壊し、音楽配信に新たなrootを設け、さらに自由と広がりを人びとに与えるものでした。(webから好きな音楽をダウンロードして自分だけの曲構成がつくれ、どこにいても数万曲のなかから自由に構成したライブラリをTPOに合わせ瞬時に開いて自分の世界に浸ることが出来る余裕。場所を特定しない癒しの場の生成。さらに他人のiPodのジャックに自分のイヤホンを挿し、曲を聴き合うような新しい人とのコミュニケーションスタイルも生まれ)言うまでもなく操作性の高さとシンプルさに調和した見事に美しいフォルムとあいまって、ある意味携帯スヌーズレンとも言えるものでしょうか。
現在、物の送り手としては差異・デザインを価値として送り続けることが最大の課題となっていますが、受け手である個人レベルでは無限にある商品・デザインの渦の中から、単なる差異としての価値ではない自分にとって確かな物・デザインを選択する必要に迫られています。アフリカの手工芸品売り場で心の和むグッズに出会って部屋に思いつきで飾ることが、無意識的ではあっても自分の安らぎのための部屋デザインの第一歩でしょう。これを個人的に行うか、組織的に行うか、またどのような目的で構想を立てて行うのかでデザインの意味・価値も決ってくるはずです。個人的な癒し空間の工夫、企業としての営利を目的とした物(環境)の展開、組織としてのスヌーズレンの設置、芸術家個人の思想によるインスタレーションの作成、など、様々なレベルでの数えきれないデザインが発生している現状。そこにあって重要な点は、デザインは物・環境にとって自明なものでも自然発生的なものでもなく、近代以降、生活空間から物が物として初めて見出されたとき、同時に発明され、全く自由自在に形を作ることができる可能性をもちながら、様々な体制・思想の下で人を変える無意識的な形体を作り出し、現在、市場経済のロジックの下で半ば自動的に作動を続けているという過程の意識化です。
このことに対する無意識は、知らず消費に突き動かされ続けたり、生活様式や身体をあるスタイルにからめとられたり、それによるストレスに嘖まれたり、精神の分裂を呼ぶものとなっています。誰もが自分の場所からすでにある、自分を捉えてしまっているデザインを自ら捉えなおし、デザインをし直すことの重要性を何より確認したいです。スヌーズレンのように、柔らかな組織でその思想の元に構成要素ひとつひとつ吟味して時には自作しながらデザインする作業は制作側にとっても創造的かつ健康的な仕事となるに違いないでしょう。
5.デザインとしての覚醒 ”インスタレーションを超えて”
すでに引き合いに出している「インスタレーション」も、人が行き来する空間を作家自身が探してきた素材やコンピュータ等を利用したオブジェの設置により「異化」するもので、ある種のメッセージ内容をそこを通過する人びとに一方的に伝えようとするものではなく、いつの間にか作られていた非日常的な空間から人びとが自分なりのメッセージをくみ取ったり、自分の日常空間(枠)が逆照射され、意識が内省に向けられるようなシステムでもあります。期間限定の一回的デザインと言うべきか。デザインという枠を意識化するシステムとも言えましょう。しかしすでにインスタレーションはそれ自体の方法論がすでに目新しさ(革新性)を失い、単に「流行りやすい美術の方法となったと言える、、、あとは、それを、なんのための方法とするかであろう。」(現代美術) と言う状況です。ある思想・目的を持った組織によるスヌーズレンのようなしなやかな方法論がもとになり生活環境に再度そのような試みが広く展開していけば、少なくともわれわれにとっての健康的な環境が考えられる契機となるはずです。
日々慢性的なストレスに嘖まれ生活を続けなければならないわたしたちにとって、スヌーズレンを障害者や老齢痴呆者だけではなく、もっと広く展望を持ったものとして、開放・一般化する方向性をさぐる必要性を覚えます。
スヌーズレン003を明日お届けします。

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