となりのトトロ ~ 夢だけど夢じゃない

さつきとメイって、どちらも5月だけど、どういう意味をもたせているのだろう、とおもいつつ見ていたが、メイが行方不明になった時から、もう完全にのめり込んで見てしまったため、何だかわからなかった。
何せ、メイが見つかった時は、おばあちゃんと同じくらいの精神状態だったから。
それから、さつきがメイの言うトトロはトロルのことだと言っていた。
トロルは有名なノルウェーの妖精であり死神である。
5月と言うのは植物が芽生え緑に萌える季節だからか?
その季節を両親が好きだからなのか?
(ところでトトロが活発に活動を始める季節なのか?)
生と死を行き来するもの。
この映画は、お母さんが人里離れた病院に入院していることが重要な要素であり物語の中心ともなっている。
お父さんと娘二人の家族でわざわざ田舎に引っ越してくる。
そこからさらに奥地のお母さんのいる病院を中心にこの物語ー日常は動いている。
いつもこの親子は死―彼岸と隣り合わせに暮らしている。
隣にはトトロが居眠りしている。
常に死が基調に流れている物語だ。
見え隠れする彼岸をトトロと猫バスが行き来する。
しかし、さつきとメイにしか見えない。
物語最後の場面で、せっかく猫バスに乗って母親の病院に行ったのに、高い木の枝に座って見ているだけで、何故会わなかったのだろう?(お父さんもお母さんも、窓の外に全く気付かなかったのか?)
エンディングは、以前DVDの紹介記事か何かで読んだものだが、家族そろって歓談する和やかなシーンだが、確かに書かれているようにみんなが若く、これはそこでの指摘のように回想であると言った方が腑に落ちる。
お父さんは、家では考古学の研究ではなく、小説を書いていたのか?
よってお父さんの想像の物語であると、受け取ることも可能な構造であり、それを匂わせる場面も幾つかみつかり、そう見る事は出来る。
しかしそれでは単に家族の在りし日の回想録であり、トトロは完全に影を失う。
ちょっとした添え物に過ぎない。
物語が過去の時制に一本化されることで、トトロはとんだ脇役の道化だ。
さつきとメイにしか見えなくてもトトロは、
小トトロ、中トトロ、大トトロは、とても恍けて人懐っこい可愛い妖精?である。
彼らがオカリナを吹き夜空を舞い風を呼び芽を次々に吹かせる光景。
これは明くる日には実現したものである。
トウモロコシも実際に届けられた。「おかあさんへ」と書かれて。
会わなかったのは、トトロと猫バスの説明が大人にはつかないから、2人の配慮である。
トトロがその実在性を失うことで、この物語は大変貧しいものになることは確かである。
よくある波乱万丈な物語がすべて実は主人公の夢だったとか。
すべて丸ごとならともかく、トトロによって2人が現と彼岸を行き来することがこの物語の物語たるところである。
現在時制にあることで、トトロははじめて活き活きと実在性をもち、この世界の時間と空間の重層性を確かに支える。
これがこの物語の骨格であり、場所である。
此処を潰しては、もはや「となりのトトロ」でも何でもない。
貧弱な過去を想起するだけの物語であり、夢も希望もない。
トトロではなくトロルとした方がよい。
トトロとは、
ある意味、この世の極―縁の存在と言える。
あの大きな神木の下、いや上か。
子供のころなら、わたしにも見えるのか?
行くことも?
とても瑞々しい感性と知覚によって受容される存在であり、世界である。
そこに触知出来る事は幸運である。
世界=ファンタジー
それでも
行くとは逝くことか?
少なくともそう見たいひとはいるようだ。
とても胸を打つ素敵な話なのだが、どこか回想めいた物悲しさを纏う余地を呼び込む映画ではあった。
済みません。また、書いてる途中でアップしてしまいました。
しかもすぐに対応が取れず、当方の都合で手を付けるのが遅くなりましたことをお詫びいたします。
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