新しい時間へ

新しい空間というのは、家を新築するとか新しいマンションに移るとか、別荘を買ったとか、なんでも良いけど、そうそう新しい車にしたという時もそれに当たる。
何か自分を包む空間の質が変わり気持ちがよい、と思えることはあるはず。
しかし、やはり新しい時間だ。
何といっても、時間-無意識の流れの乗り換えがその存在―身体性を根こそぎ変えるはず。
ここのところ全く同じことを毎回ずっと言い続けている気がする。
何故、変えること、変わることに過剰に拘るのか?
今のままではだめなのか?
娘に時折、それとなく諭される。
5歳の娘が一番覚醒していることに気づく瞬間。
やはり娘と同じレヴェルで過ごせないというのは、確実にどこかが軋んでいる。
このブログをお読みの方もきっとそれが引っかかり、イライラするときもお有りだったと思う。
それも知りつつ、どうしても拘ってしまっていた。
まず映画がそうだ、何故こんなふうに頼まれてもいないのに拘って観るのか?
もっと単に好きな映画を気楽に観ればよいではないか?
などとここのところ、妙に拘わりに引きずられて来た感がある。
ガメラが見たけりゃガメラを観れば、というところなのである。
勿論、自分なりに系統立てて観た映画も純粋に面白かった。
観て損したというものは一つもない。すべてが良い経験となった。
(しかし実は古いガメラに遡りすべてのガメラ映画もDVDでだが買ってしまった!やはりこれからの楽しみである。)
ある意味、ヒトを辟易させるような拘わりも引き継ぎつつ-大変根深いものは無理に切断出来ない-
しかしやはり新しい時間を生きることだ。
これは真に生きてゆく。
つまり意識的に生きてゆこうということと同義なのである。
全細胞が一定期間にすべて入れ替わるように。
生きることは、つまり一つの主体として持続することは、イコール生成を意味する、ということ。
不可避的に物理レヴェルでも入れ替わるが、意識レヴェルも総じて変わりたいという意思というより指向性が働くのだ。
このままから、そのままへ。
とは、よく言ったものだ。
夏は特に植物性その眠りと途方もない成長が地上を覆う季節だ。
このモワッとする皮膜のような時間のうちを半ば眠りつつ漂い、忽然と展出する。
ゴジラだ!
ゴジラはやはり出るべくして出た。
わたしの家ではガメラもだ。
大丈夫か?
富士山がいつ噴火するかも知れないのに。
とも思うが、そうではない。
こういう時だからこそ、自分に徹底して拘る必要がある。
(急に開き直った?!)
機会というのは、本当に大切だと思う。
機会を間違えなければ、スッと変わっているはずだ。
ハイデッガーの言う”放下”か?
しかしそれこそ、語るべきことではない。