純粋ということ

デュフィの記事でコメントをくださった方の文から、カンディンスキーを思い浮かべ、純粋抽象についてふと頭をよぎったことがあるので、メモしておきます。
純粋というのはすでにそれ自体で完全に自足していることを指し、自ら以外の何かに関係することはない状態です。
つまりもう根はない。起源もない。
純粋抽象群が視界に見えたとしても、それらには独自の時間も空間もなく、ただ一様の時空の器に漂っているものに思えます。
クレーが抽象化へと進むなか、なんとしても踏み留まろうとしたところが共通形態の場だったのだと思われます。
われわれの深い無意識層に分け行って創造を進めるにつけ、集合無意識の形象ともとれるシンプルで芳醇な形態は何より重大な意味を持ったものだと考えます。
つまり、徐々に物を単純化してゆき、按配を見てあの辺で止めたとかいう類のものでは全くなく、まさに「あれ」だったのだと強くわたしは確信しています。あの形以外の何物でもないものとしてクレーはそれを描き込んだ。
そもそも、この世で絵を描く上で、そこに根を持ち繋がっていなくては、例え彼岸を描いても意味を成さないと思います。
身体性を失って、固有の時空を失って、描けるものはわれわれにとっては意味を喪失しています。
クレーは場所をしっかり持っています。
カンディンスキーには場所がない。
わたしが、カンディンスキーにさして興味がなく、クレーやマルクに強烈な愛着を持つところの大きな差です。
これを、無調音楽と調性のある音楽の差のようにとれるでしょうか?
どなたか、ご意見をいただきたいところです。
そうもともと、詩から来ていますよね。
意味として読まれることを徹底して拒絶する純粋詩?どう呼ぶのか?現代詩でしたっけ?
別にそういう枠―ジャンルがあるわけではないでしょうが。
ダダなら分かります。フーゴ・パルなどの方法としての詩。
または、重層的で感動的なトリスタン・ツァラの”近似的人間”
シュル・レアリズムの例えば、ジョルジュ・デ・キリコの詩などは結晶的なイメージに煌めいています。
それらの全くない、身体的感覚に僅かでも接合しない創造というものは、でも確かに作られてはいます。
何とも書きにくいことです。
どうなんでしょう?
色と線とが自立性を昂める中、芸術家の格闘として。