観てない映画は観なければならない!~ ”V” を観る!

トマス・ピンチョンに”V”という小説があった。
全く関係はないが。
Vと言われると、身構えるものがある。
やはり、過激さ凄まじさではかなり通じるものはあった。
ただ、この映画では、シェークスピアの言葉が躍る。
近未来だがレトロ調でもある。
とてつもない全体主義・専制主義による圧政下の極端な舞台設定。
そう舞台劇じみてもいる。
イギリスで人気の劇画を実写再現しているようだ。
政治色の強い劇画とされている。
テロリストVと、イヴィー(ナタリー・ポートマン)の社会に対する戦い。
しかしそれは同時に、自分の発見と確立の過程の戦いをも意味する。
気弱で依存的な主人公が極限的な生活の中で、覚醒してゆく。
わたしはそちらの方を重く見たい。
近未来の管理社会の光景、、、と言えば。
細菌兵器の開発と人体実験、情報統制とその操作(医学的にも)、異分子粛清、地下組織、潜伏、復讐、制圧、等等定番設定に新しさはないが、既視感をそれほど感じない。
舞台装置はありきたりだが、何かが新鮮で謎も魅惑的である。
主人公のVのうすら笑いの仮面の出立ちも、特徴的で個性を生んでいる。
爆破とともに夜空に花火もよく上がる。
映画が確かに劇画調であり、堺雅人主演の劇にも通じるカットやテンポを感じる。
撮り方にも劇画のコマ割りの影響もあると思うが。
Vは、民衆に社会を引き渡そうとはしているが、単なる自由主義の革命家ではなく、政府に対する復讐に燃えたテロリストである。
しかしいつしかイヴィーとの間で彼も心を開いてゆく。
成長する彼女とのコミュニケーションを通して。
単なる孤独なテロリストではなくなる。
恐らく彼本来は芸術家肌の、思想的にはアナーキストであろう。
何より死に直結する存在学的な覚醒を目指す姿勢がはっきり窺える。
特にVには。
革命によってみんなの住みよい世界を作りましょうではなく。
イヴィーもVとの接触につれ、共感、理解、愛情の芽生えとともに、自分の核にしっかり触れ自己への信頼に目覚めてゆく。
そしてVの死を前にして、揺るぎない自分の存在を確信する。
外部の又は内部に巣食ういかなる権力-超自我にも屈しない自分をVに促されて見出したと言える。
非常に過酷な試練と多くの血生臭い犠牲(自分から目を背けて封印してしまったヴィジョン)の上に立つことで、ようやく掴んだものであった。
ちょうど彼女はスキンヘッドともなり、雨に打たれ-清められ、逞しい革命家に身も心もなった。
演技としては、激しいアクションがあるわけではなく、身体の酷使という点から言えばブラック・スワンの比ではないが。
これはとても重くある意味、等身大の身体をめいっぱい張った演技であったと思う。
特に髪を切る-削ぐこと自体、女性としての大きな覚悟であったはず。
イヴィー=ナタリー・ポートマンとして。
もはや演技を超えた彼女の現存在そのものである。
この点がこの映画を、既視感を払拭して鮮烈なものにしている。
やはり、観るべき映画であった。
もうこの女優の作品はよしとします。
俳優にこだわらず、廃墟的な映画をまた観たい。
とはいえ、何を観るかは見当がつきませんが。
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