ほんとうにあった怖い話「母の声」

2014
菊池正和 監督・脚本・編集
弥栄裕樹 音楽
浅香うらら、、、エリ(引篭もりの女子中学生)
わたしがつくづく感じたのは、この時期の子は、他者に対する感覚が極めて希薄。いや歪。
自我が確立していない分、他者も一個の内面をもつ人格としては捉えられない。
でももう中学生(「もうちゅうさん」ではないけど(笑)、体はデカいのにこのアンバランスが何とも言えない。
引き籠り部屋のドアの外にご飯を持って来た母が声をかけると、その声が気に障るといって「死んでいなくなれ!」と罵ることが平気で出来る。逆から見れば、どうにもならない不全感の叫びとも取れるが。それを何かのせいにして合理化しようというのか。
ここでは「母の声」である。確かに声にはこころの敏感な部分に直接作用するような物質性~波動がある。
しかし3度の食事を毎日作って運んでくれる母に対してだ。
(もしかしたら塾に高い月謝を祓わせてすっぽかしているケースもあろう)。
ある意味、何を謂ってもどういう対し方をしても自分を保護し世話を焼いてくれるという全幅の信頼をおいているのか。
それが前提に無いとこんな事が謂えるわけがない。
それとも全く無意識に言っているのか。
そう、感覚だけなのだ。
他者~異物性を徹底排除しようとしている。極度の排他主義。他者のこころを知ろうとか言うレベルではなく、ただ感覚的に他を寄せ付けない状況。
(そうこういう子は声だけでなく他者を汚いとか臭いとかいう。誰かが触れたものは触れないとか)。
人間ではない。
受容性~共感なくして関係性は生じない。結べない。
中学生の時期にまだ人間になっていない。
これは尋常ではない。
異常だ。
反抗期とはそもそも何か。
潔癖症とは何か。
これを正当化するものか。
無理だ。
あり得ない。こちらが耐えられない。限界を超える。
これ程極端でなくとも、こうした傾向、特性をもったバリエーションが多々見られるのは事実。
しかしこのエピソード提供者は、あの頃と言って振り返っている。
つまりその自分を対象化し包含する精神性は持ち得ていると謂えよう。
どの契機でそうなったのか。つまりどういう過程で自我を育んだのか。
ある意味、その当時の母親に対してこんな酷い接し方をしていたというスタンスからモノを言っている。
これはとりもなおさず反省的思考から生まれたものだ。
内省を感じる。
この非人間的中学生が、どういう過程を踏んでそうなったのか、そこを知りたい。
当人に是非分析してもらいたいのだ。
大いに参考になる。
わたしにとって。今切実なのだ。この点が。分るだろうか!
結局、母が余りの酷い仕打ちに耐えかねて家を出てしまったのだが、、、。
母のいなくなったにも拘らず不気味な何者かが自分の部屋のドアをノックしこじ開けようと毎日やって来るのだった、、、。
娘はその恐怖と不安に耐えられず、家を出ることにしたが、キッチンで料理の支度をしている母の後姿を見て、彼女が自殺したと思い込んだという(これは自身の内面の投影なのか。何であるのか)。
いずれにせよその体験が内省の契機となったというのか。
母は離婚した元夫のところに転がり込み、傷を癒していたらしい。
あの後ろ姿の幻は一体なんであるのか、、、。
その幻と面と向かって接したのは、クラスメイトの女子であり、休んでいる彼女を何とかクラスに迎え入れようとやって来た子であった。
その子は帰りに事故で亡くなったという。
このように怪談で誤魔化されては困る。
そんなことは、どうでもよい。安易な結びつけは止め。
逆にこんな怪談を経なければまともにならぬのなら、先ず無理。
しかし確かにまともでない輩が周囲に跋扈しているのも事実。
そのまま歳だけとった奴らに今夜も出逢ってしまった。
久しぶりに低周波ねずみ男のバカ面を街頭で垣間見たわ。吐き気がする。
この投稿者は今はどういう人なのか。
そっちを知りたいね。
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