言葉を愚弄する世界

割り切ればよいのだろう。
意味のない辻褄合わせだけの時間を過ごすこと。
まさに悪しき廃墟とはこのことだ。
しかし何よりもそこにいる時間が長すぎる。
微細な感覚から死にはじめる。
身体が麻痺する。
わたしの見えない人間でない身体が叫び声を上げる。
このまま立ち腐れする訳にはいかない。
わたしは家族と貴重な時間を過ごしたい。
垂直な時間を経験したい。
何かを作りたい。
もはや限界を超えている。
こちらにも何らかの方法が必要だ。
速度のある方法?
もう猶予はない。
観えないものにこそ、その構造を探っていかないと。
もともと数学―幾何学はそのためにあるのだし。
可視光線は電磁波の中のほんの僅かな部分でしかない。
しかし観えないバンドの部分の恩恵にいかに浴しているか。
(赤外線、電波、X線、、、)
その物質性にこそ拘りたい。
たしかに光は波であると同時に、粒子である。
波長の側面だけでは色の部分が殊更際立つが。
光電効果(光量子仮説―アインシュタイン)の研究成果は光の粒子性を確かなものにした。
日焼けでも粒子性を見なければ説明できない。
観えないもの、触知出来ないもの、世界のほとんどを満たして支えているもの事へ。
どうやらわれわれは限られた視覚に囚われ過ぎている。
だから何も見えない。
観えないもの、感じられないものがほとんどを占めているのに、見えるもの触れるものしか元に考えない。
とは言え、星の王子さまのように、見えないものが大切なんだよ、と言われてもどうにもならない。
そこからあの絵だ。
荒唐無稽な空想―絵空事だ。
やはり理論がないと構造化しない。
当たり前だが。
イメージなど湧きようがない。
ガストンバシュラールのいう物質的想像力だ。
幾何学性をもった思考。
「生活空間」
これこそ厄介なものだ。
それにしてもそれを研究対象とした後期エトムント・フッサールの生活空間とは。
やはり研究室か?
ヴィトゲンシュタインについても。
(わたしは論理哲学論考のころのファンだが)
わたしは少なくとも生活空間の真っ只中にいる。
単なる一般人である。
しかし、割り切れない。
感覚的に。
感性が。
わたしの人間でない身体が。

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