S君のこと

S君とは大学で知り合い、時を同じくして彼は絵を(自分の絵を)描き出しました。
S君といえば、点描です。(最初期、ボードに時折描く絵は彼にとって特殊なものなのか、例外的に点描でないのもあります)
彼の点描の密度は年々濃くなり、継続によるテクニックは格段に増していきますが、基本的なテーマは一貫して幼年期の夢のような快楽の封じ込めです。胎内のような異物は全く混入しない、護られ完結した世界を何の気兼ねなく描ききってゆきます。
S君の事を一言で紹介しますと、不変の人です。そんな言葉あったか?ボルヘスにそんなのがあった(「不死の人」です)。
何が起きようが、なんて頼まれようが周りに合わせて自分を変えるということはまずありません。
一つ決めた事は自分の中で考えが変わらぬ限り、変更はしません。しかし変わった形跡はありません。
やはり「不変のひと」です。描く絵も今や普遍性を持ち得たかと思われます。
変わらないこと。普通のように見えて、これは普通ではありません。
開成中、開成高のスパルタ教育*(例えば、夏期水泳教室でははるか遠方の島まで泳ぎつくコースがあり、途中で溺れそうになると、先生が死ねと言ってオールで頭を叩くそうです、すると当人は水面下深く、溺れて沈んでから慌てて浮かび上がり結局皆泳ぎ切るそうです)等を経てある意味かなり心身共に強い人になっています。テスト前になると本領発揮です。尋常でない集中力を発揮し、いかなる問題にも対処します。自分のまとめたレポート類ならいくら見ても良いといったテストなら万全のまとめを用意して来ます。勿論、私は隣に座って共に閲覧し、なんの問題なく単位をとりました。出てない講義でも。
さらに強さと言うか、したたかさを感じたのは、大学の絵画の教授の**氏(埴谷雄高に高い評価を受けていた砂丘ばかり描くひと)がS君の絵を気に入り、僕の絵と交換しようと言って先にS君の絵を持って行ってしまい結局、向こうは絵をくれなかった一件です。S君は通常、絶対に人に絵を売ったりあげたりはしません。そういう形で自分の絵が1枚無くなってしまったことに最初はかなり文句を言っていました。が、しばらくするとその絵が彼の部屋に戻っているではありませんか。「返してもらってよかったじゃん」と言うと、耳を疑う言葉が返ってきたのです。普通絵を描く人間にはありえないことです。「仕方ないからまた描いた」と、寸分違わぬ絵をまた描いてしまったと言うのです。まずそもそも描く気になりません。コンテクストを外れてその絵を描くなんて必然性が失われます。同じ絵など、そんな気持ちにならない。同じ絵がもう一度描けるというのは,彼にとって絵を描く行為とはどういうものなのか?手法的には芸術を職人芸と融合し質のよい生活環境を提供しようとした(手作業と普遍化を目指した)工業運動、アーツアンドクラフツ(ラスキン-モリス)のモダン装飾の制作と基本的に同次元のものなのかもしれません。ただ家の中、身の回りを自分が住みやすい質の高い心地よい環境にしたい。否、ある意味、一回性などと言う啓示やら深淵やら苦悩にはそわない趣味的、効率的な職人的技量により機械的に遂行されるように感じられる面はありますが、根源的なリビドー・動機はと言うと快楽原理に裏打ちされた、自分の分身-点描画を増殖し(場合よっては補填、分裂させ)ひたすら遍在させてゆこうとする、全能的な胎内環境を外界と同等の大きさにまで膨らめ重ね合わせたいという意欲なのかも知れません。それはほとんど生きるということと同義な。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そんな一途な生粋の職人画家です?多分、彼の尊敬するアンリ・ルソーもそんな職人画家だと想われます。
ARTIと言うよりMESTIERI、少年のように素直な職人絵描き。そう思うと腑に落ちます。エミール・ボンボワよりずっとアカデミックなアーティストですから趣味的な素朴派とは言えませんしね。
そう音楽ではジャズとサティを教わりました。ジャズは50年代ものが大好きで、高級ワインのように芳醇でひたすら快感に身をよじるような音がたまらないとよく言っていました。同じジャズとは言えコルトレーンとかストイックな音は大嫌いで、ジャズであんな音を出すのはゆるさない、と大変立腹していました。(コルトレーンファンの皆様すみません)では私が当時しきりに聴いていたポストパンクなど到底聴けないだろうと思うと、これは「あなたの音ですねえ」と言い聴いてくれるのです。最後まで一緒に聴いてくれました。クラシックについては2人ともめいめいに好きなものを聴いていました。われわれ2人がどうしてもいたたまれない共通の音は、ロックンロールです。部屋に流れでもすれば2分持たないです。ウルトラマンのカラータイマーより持たない。すぐに逃げ出します。それは私にとっては当然です。Rockはロックンロールの全否定から生じています。S君にとっても単なる騒音で意味を成さないそうです。
とりとめの無い話になりました。
彼の実家は江ノ電の*****で降り、(あのかつての江ノ電の駅では、電車が行ってしまうと砂浜にただ一人取り残された寄る辺ない気持ちになってしまう、あの駅で降り)、後はひたすら高台を登って行き白樺に囲まれた家が彼の家で、部屋の小窓からはあの海辺が音も無く眺められます。いつも朝5時には若い男女のサーファーがボードを担いで波を求めてやって来るのを見るでもなく眺めていたそうですが、彼は一度たりともその浜辺に実際に足を運んだことが無いそうです。でもその浜辺の絵などは何度も描いています。まるで、「アフリカの印象」を書いたレーモン・ルーセルみたいに。
連絡を久しぶりにとり、夥しい絵のその後の動向を確認しまたアップしていきます。
*あくまでも当時のことです。今現在行われている教育ではありません。戸塚ヨットスクールか(笑)?

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