ブラック・スワン Black Swan ~ ナタリー・ポートマンを見て

Black Swan
2010年
アメリカ
ダーレン・アロノフスキー監督
ナタリー・ポートマン、、、ニナ・セイヤーズ(プリマ)
ヴァンサン・カッセル、、、トマ・ルロイ(フランス人演出家)
ミラ・クニス、、、リリー(バレリーナ)
バーバラ・ハーシー、、、エリカ・セイヤーズ(ニナの母)
ウィノナ・ライダー、、、ベス・マッキンタイア
ブラック・スワンは、有り得ない起こり得ないと思っていたことがいったん起こると途轍もないインパクトを及ぼすという理論でもある。
ブラックスワンは血の衝撃の連続であった。
美への野心、底知れぬ情熱、錯乱した陶酔、血まみれの身体。
それから変性意識上の不安、嫉妬、殺意、飛翔または超脱いやここでは解放か。
白・黒・赤の狂気。
「芸術家のエゴとナルシズムの探求の映画である」とポートマンは述べているが、まさにナタリー・ポートマンその人のような才能あふれる優秀な努力家が、崩壊してゆく過程が身の毛もよだつ幻覚や妄想とともに描かれる。
これは、演じ甲斐があったはずだ。バレエの技術も含め心理・内面描写において。
その繊細極まりない鬼気迫る演技には圧倒された。
2011年アカデミー賞主演女優賞を受けるのも充分に納得がいく。
ナタリー・ポートマンは、ロマン・ポランスキーの1969年の映画『ローズマリーの赤ちゃん』と比較できるものとしてこの映画を捉えている。
フランス人バレエ監督役のヴァンサン・カッセルは、ポランスキーの初期作品、さらに、デヴィッド・クローネンバーグの初期作品と本作品を比較している。
全く、その系列の作品だろう。しかし此方の方が存在学的な基盤は重い。
重厚であり、美しい。
芸術に秘められる狂気の説得力は圧倒的だ。
クラシックバレエ「白鳥の湖」を題材に、これほどの迫力のあるサイコスリラーが生成されることに驚愕した。
身体を駆使する表現芸術の過酷さがよく描かれていたが、ここでプリマとして踊るということは、さらなる飛躍・解放が必要とされる。通常のdisciplineだけではない、何かである。ニナは苦闘する。まさに芸術家の苦闘に他ならない。
ここでのニナにとっての飛躍のための課題は、監督ヴァンサン・カッセルに幾度となく指摘されている「コントロールしつつ自らを解放しろ」である。
完璧を目指すが真面目すぎて飛ぶことができないニナは、無意識的にノンコントロール状態で身体を解放してしまった。
ある意味、能力というより資質的な面から、邪悪で甘美で大胆な誘惑を演じることが出来ないニナが自らの身体性の限界を超えてしまっていた。精神を病んでいる徴候は母親は充分に気づいており、ニナを休ませようとするが、彼女はすでに悪魔に魂を売っていたと言えよう。
芸術家にはこのような悲劇に飲み込まれていったヒトも少なくない。
カミーユ・クロデールなども。
しかし終始苦悶と不安に苛まれる神経質な表情から、最後至福の安らかな表情に染め上げられた輝くばかりの彼女に、見ているこちらが救われる思いがした。
それが命と引き換えのものであったとしても。
彼女は完璧をなし終え、解放された。

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