汚れた血 ~ ネオ・ヌーヴェルヴァーグの傑作を観て

Mauvais Sang
1986年
フランス
レオス・カラックス監督・脚本
ベンジャミン・ブリテン音楽
主題歌 デヴィッド・ボウイ『Modern Love』
ドニ・ラヴァン、、、アレックス
ジュリエット・ビノシュ、、、アンナ
ジュリー・デルピー、、、リーズ
ミシェル・ピッコリ、、、マルク
夜の光景が多かった。とてもクリアーな夜であった。
暗くてよく分からないという部分はなかった。
細部がくっきりと描かれていた。
特に赤、青、黄色などの鮮明な色が黒の中に際立っていた。
街角、建物、車、バイク、様々なものが模型的(様式美?)で、隅々までアーティフィシャルな空間が広がっていた。
これは人物にも言える。特にアメリカ女。そして主人公。ヴィノシュもそうだ。あまり人間らしくない。人形的だ。
動きもセリフもおまけに主人公の青年は腹話術をやる。
ヴィノシュはボブカットの前髪を息で吹きあげていた。
デヴィッド・ボウイの”Modan Love"に乗って主人公の青年が疾走していた。
これだけで彼がどんなヒトだか分かるような疾走ぶりだ。
青年の元恋人ジュリー・デルヴィーも走っている。バイクでも走りまわる。
ジュリエット・ヴィノシュも最後に走る。
何のために走るではなく、何処に行くでもなく、好きなように走ってみる以外にないのである。
ただ、ここに留まることが出来ないから。
走ることが自己目的なのである。
もっと言えば、現在ー現実そのものに耐えられない。
不可能性(必然的に死)に向けてひたすら逃れようとする。
驚愕するような深遠や刺激はないが、自分をこれほど大事に想ってくれる恋人ジュリー・デルヴィーを振り切り、父親の親友の情婦であるジュリエット・ヴィノシュに入れ込むというのもこの青年の象徴的な資質だ。(ある意味普遍的だが)
その感覚が共感できる。
この映画に身を添わせる快感と言うか。
文学的な香りの青春映画。
しかし徹頭徹尾、映画である。
やはりゴダールを想い浮かべるヒトは多いのではないか?
ストーリーとしては犯罪サスペンスとしての展開は特になく、ハレー彗星の異常接近や愛の無いセックスで感染する奇病STBOや青年のアヘンで痛みを胡麻化している腹痛も内容的に何らかの意味はない。彼らの疾走する書き割りー光景のひとつに過ぎない。
レオス・カラックス監督。「ポンヌフの恋人」の(ここでもジュリエット・ビノシュ)。
ルイ・デリュック賞、87年ベルリン映画祭アルフレッド・バウワー賞を受賞。フランスのアカデミー賞であるセザール賞でも2年連続のジュリエット・ビノシュを始め、ほとんどの部門にノミネートされた。
ネオ・ヌーヴェルヴァーグの巨匠の若き頃の第二弾目作品。
ジャン=ジャック・ベネックスやリュック・ベンソンも観てみないと。
どこかで(TV)観ていたはずだが、忘れている。
今度は、”サブウェイ”でも観てみようか。
生命の形式が今現在しか在ることが出来ないのに、今を生きれないー横溢してしまい高まる水位から流されるように逃走してしまう典型的な青年の身体性であり、その時期に誰もが少なからず経験する普遍性的な行為でもある。
今の充足に耐えられない。ここに、廃墟の魅惑が生じる。
廃墟的な場所の渇望に繋がる。
廃墟は基本的に空っぽである。
廃墟には、今がない。
あるのは自然の時間性だけで、人間の時間はない。
よく自然の中で生きたいというのも、この意識に通じる。
自意識過剰のすべてをリセットしたいという意向と身振りがそうさせる。
青春のヒトこまであったり、生涯を通しての基調として流れていたりは、するが。
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