ルシー・イン・ザ・スカイ

Lucy in the Sky
2019
アメリカ
ノア・ホーリー監督・脚本
エリオット・ディジュゼッピ、ブライアン・C・ブラウン脚本・原作
ナタリー・ポートマン、、、ルーシー・コーラ(宇宙飛行士)
ジョン・ハム、、、マーク・グッドウィン(宇宙飛行士、浮気相手)
ザジー・ビーツ、、、エリン・エックルズ(NASAの訓練生)
ダン・スティーヴンス、、、ドリュー・コーラ(夫。NASAの広報)
エレン・バースティン、、、ナナ・ホルブルック(祖母、育ての親)
パール・アマンダ・ディクソン 、、、ブルーアイリス(姪)
こんな変な映画久しぶりだわ。
ナタリー・ポートマンと言えば、わたしはジョディ・フォスターと並び優れた推し女優なのだが。
宇宙もので「コンタクト」と「この無残な映画」との差は余りに大きい。
ナタリー・ポートマンが狂気を演じたものでも「ブラック・スワン」は大変インパクトのある説得力を持った傑作であった。
これとは比べ物にならない出来である。

何でも実在の宇宙飛行士を元に描いたと言うが、別に実際にあった狂気を描けばよいと言うものではない。
実際にあろうが、なかろうが、そんなことは、全くどうでもよい。
単に映画作品としてどうか、というそれだけのことだ。
それに作品化する時点で、何が元となろうが、全てが完全に虚構でしかない。その点は言うまでもないこと。
そんなことへの拘りや価値など全く意味ない。
では、何でこんなものを敢えて作ったのか。訴えたいメッセージとかがあってのことか?
宇宙飛行士は帰って来ると、(プリミティブな)宗教者になる人もいたりするが、少なからず宇宙の中の人間の位置について考え魂~精神界について思慮を巡らせる傾向が見られる。
だが、この女性は全く逆だ。
それも勿論(人それぞれ)あって良いのだが、このような発狂の仕方自体、取り上げて映画作品に定着する意味~価値がそもそもあるのか?
その意図が分からない。

ただの変な人ではないか。
ナタリー・ポートマンのような優秀な人が、そこに何を見出し、何に共感しその生を描こうとしたのか?
ホントに単に変な人になっていただけ。その意味ではなりきっていたのだが、何で、と聞きたい。
「ブラック・スワン」は、ひたすら自分の追い求める美を追求する過程で狂気へと至ってゆくドラマが素晴らしい演技と演出で描かれており、吸い込まれるように魅入ってしまったものだが。
これは、観て行くうちにどんどん観る気が失せて来る何なんだこの女は、というともかく傍迷惑な存在について行けなくなる。
夫をはじめ周囲の大変優秀で品格もある人々に対し、無礼極まりない態度で接し(浮気も堂々として)、独善的な行動で掻き回し、最後はあれである。
少しはいつも一緒にいる姪が何とかしろ、と思っていたら車に準備しておいたピストルを自分のバッグに隠したことだけは、評価したい。というか、あの姪にしては、よくやったと褒めたい気持ちだ。
そのまま銃をぶっ放していたら、シャレになるまい。

まあ、確かに自分をともかく目立たせたい、一番でいたいみたいな人がヒステリックに振舞うパタンはあるが、宇宙飛行士の場合、一緒に搭乗するクルーとの関係もある。自己中の独善家が何をかやらかしたら当然他の飛行士の命の保証もない。
クールダウンしろと少し休養を取るように謂われ、次の飛行は見合わせることは、管理側からすれば当然の配慮であり措置であろう。それに対して逆恨みをして支離滅裂な噺を研修生に吹き込もうとするなど、もう危険人物としか言いようがないではないか。
監督としては(脚本家も含め)、こういう人がいましたという物語をどうしても作りたかったのか?
その意図がどうにも分からない。
ともかくジョディ・フォスターの「コンタクト」とは、天と地の差だ。
「コンタクト」は正直、感動して涙なしに観られぬ映画であったが、、、
(「コンタクト」は優れたSF映画であったが、これは精神障害の一つのパタンを描写した映画と言えようか)。
観る価値とは何か、と考えさせられる作品ではあったが、わざわざ観るまでも無かろう(2時間超えである)。
何の為の映画なのかが、さっぱり分からん。
Wowowにて
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