ヘンリー・ムーア~彫刻に見る普遍性

ひところ廃墟についてその周辺を見て回って、絵画や映画にもその感覚をさぐってみた。
何というか、そこに感じられてならないものは、時間という普遍性である。
同時に時間の多様性である。
しかし時間のひとつの表現が廃墟だとすれば、確かにヒトが殊更廃墟に感じ入ってしまうのも頷ける。
時の前では全てが諸行無常。
そう言ってしまえばそれまでだが、、、
廃墟に迫れたかどうかでなく、まだ見足りないものが多いという気持ちが多く、まだまとめたり論じるところまで到底行かないという気持ちは残ったままだ。
彫刻を考えてみなかった。
彫刻はすべて廃墟にある作品ーアイテムのひとつとして見てきた。
レリーフ模様と同じく付属する装飾として。
彫刻自体を見ていない。
といってもわたしは彫刻にはあまり詳しくない。
そこでもっともポプラーな彫刻家の一人、イギリスのヘンリー・ムーアを観てみたいと思った。
過去、何度か彫刻の森美術館で見ていることもあり、図録もあるので、それらを元に。(てがかりになるかどうか)
家族のシリーズはとても馴染みがある。
テーマは勿論この造形そのものにも普遍性を感じるところだ。
これについては単純化された量感が何より力強い安定感を生んでいると言ってよい。
原始彫刻を研究してきただけあり、生命力と存在感に満ちている。
確かにムーア自身の言う、内部から発する力と言うものがかなり感じられる。
それから「横たわる像」シリーズの反復と変遷。
テーマはともかくとして、木の一本彫や大理石の彫り物、大きな造形にしろ、
これらにも見られる特徴として、形態の「分割」と「穴」がある。
どうやらこの特徴がムーアの核心ではないかと思えてくる。
ムーア自身、彫刻は野外に置かれなければならない。
日の光に照らされて見られる必要がある、といったことを述べている。
穴を通して風景が見れる。切り取れる。フォルムとのコラボ。一体化。
風も通り抜けてゆく。
ときに後光に包まれもする光景。
穴の形が、何だろう、有機的で絶妙に自然だ。
形ー量と同様に充実した形ー造形に思えてくる。
ムーアはよく海辺を家族と散策し、貝殻オブジェなどを娘と拾い集めていたという。
工房にはそれらの戦利品が所狭しと並んでいたそうだ。
さらに、散策中の浜辺に発見される自然の洞窟にも大変な興味を示していたらしい。
貝殻オブジェは何工程もの抽象化を経て多様なイメージによる「横たわる像」に昇華され、洞窟は充実した「穴」へと深化したのだろう。
「分割・切断」は、形の連続性を断ち切るもの。
それは空間に対する時間性の要請によるものか。
つまり切断とは節理か。
自然を改めて自然の中に配すること。
廃墟も意図的ではなくても、ある時からはっきりと自然の中に配置される。
彫刻とは、少なくともヘンリー・ムーアにとって、その置かれた風土に溶け込みつつも、存在の普遍的な意味を無言で示しわれわれを勾引するものに他ならない。
これって、極めて廃墟的だ。廃墟が示す(魅了する)普遍性だ。
われわれの感ずる美の根源がここに見られる気がする。
生と自然(死)の硲に。
(あくまでも廃墟とかムーアとかは契機に過ぎず、気になっていたものは、神韻縹渺たる、、、)
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