パリ テキサス

Paris,Texas
1984年
西ドイツ・フランス
ヴィム・ヴェンダース監督
ライ・クーダー音楽
サム・シェパード、L・M・キット・カーソン脚本
ハリー・ディーン・スタントン 、、、トラヴィス(4年前に失踪した男)
ナスターシャ・キンスキー 、、、ジェーン(トラヴィスの妻)
ハンター・カーソン 、、、ハンター(トラヴィスの息子)
ディーン・ストックウェル 、、、ウォルト(トラヴィスの弟)
オーロール・クレマン 、、、アン(ウォルトの妻)
「テキサス州パリス」である。
このシーン、振り向きざまの間と表情が日本美学にも深く通じる気がする。
何と”ショコラ”監督のクレール・ドニが助監督。
この荒涼感。こちらはカラカラだけど。それは仕方ない。砂漠だし。
廃墟感は同等の物がある。
やはり。と思った。
廃墟映画監督の双璧だ。
ヴィム・ヴェンダースとタルコフスキー!
全くタイプは違うが。
ライ・クーダーは音楽をわざわざ買って聴くようなことはなかったが、この映像、環境音や語り(アジテーション含め)に完璧にマッチしており、はっきり言ってボブ・ディランよりずっと良かったはずで、曲を聴いてみたくなった。
ライ・クーダーの弾くボトルネックギター(スライドギター)は、エリッククラプトン言う所によるとジョージハリスンから始まったそうだが、これほど東洋的な深遠な響きをもっていたのかと、最高の環境ヴィデオを堪能する感覚であった。
砂漠に合う、勿論大都会にもぴったりな響きだ。
乾いた津軽三味線か?
特にアジテーションしている狂人のことばと、ライ・クーダーのギター、環境音による音響はいかにもだったが、圧倒的でゾクゾクした。
音と映像だけでこの時間十分楽しめるものである。
ハリー・ディーン・スタントンという俳優は何というか、タルコフスキーの映画に出ても全く違和感ない。
アンドレイ・ルブリョフをやってもサマになる。
ストーカーもいい。
前半は言葉を捨てて唖状態で、子どもと遭い心を開いてからナスターシャキンスキーとミラー越しにしゃべる頃は、詩人のような饒舌な男になっている。(勿論、ミラー越しでなければ、詩人として籠れない。生身で面と向かったら真面に喋れるものではない。そう言えば、息子にもトランシーバーに饒舌で詩的なメッセージを残している籠った男だ。)
前半の彼の、言葉は発しないが、内言語が身体内でゴツゴツぶつかり合ってその痛みを懸命に耐えているような表情など相当なものだ。
この映画にはこの役者しかいない。
また子役が、素晴らしい。
この役者が大人になってどれほどの魅力を発揮するかは分からないが、少なくともこの映画ではなくてはならない存在だ。この子役次第でどうにでもなってしまう部分が多い。
彼は演技にしてもただの存在感だけでも際立つ魅力を十二分に発揮していた。
当然、トラヴィスとのやり取りは秀逸であるが、育ての親(トラヴィスの弟夫婦)とのやり取り、ナスターシャとのホテルでの出逢い、どれをとっても彼ならではのシーンとなっている。
素敵だ。
弟夫婦もこの映画の基調をしっかり支え豊かで優しい厚みを加えていた。
ナスターシャキンスキーは、彼女の役の中でも一番良いのでは、と思われた。
ハリー・ディーン・スタントンとのミラー越しの語りは、彼女の魅力も充分に引き出されていた。
こういう知的で素直な美しさは、だれでも表現できるかというとそうでもない。
ハリーは、ではなく、トラヴィスは息子と妻を引き合わせてまた旅に出る。
結局妻には直接一度も逢わない。
趣深い。御簾を間にはなして去るような。
いいなあ。
自分と究極的な折り合いを付けるための旅か?
わたしは全くその手の旅に興味のない者であるが、この映画で考える限り、それが必然であることは解る。
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