お嬢ちゃん

2019
二ノ宮隆太郎 監督・脚本
萩原みのり、、、みのり(21歳の女性)
土手理恵子
岬ミレホ
結城さなえ
何で「お嬢ちゃん」というタイトルなのか?
鎌倉が舞台。
と言っても余り鎌倉らしさのプンプンしたロケーションはない。
わたしもしょっちゅう鎌倉に行っていた時期があったが。

カフェで「和風らーめん」が人気の店でウエイトレスを務めるみのりがヒロイン。
何に対してもしっくりせず、折り合いが付け難い。
彼女は幼少期に父から受けた虐待によるトラウマで苦しんでいる。
その経験を殊更意識化することで悪循環を生み、更に生き難くしているか。
トラウマというよりそれも関与する物事に対する認識~感受性のパタンが彼女に生き難さを突き付ける。
常に生じる齟齬。違和感を増幅する桎梏。環界に対するヒリツキ。

しかし、彼女の持つ誠実さ正義感に惹きつけられ慕う友人もいる。
ただしその関係が多分に共依存的であるが。
容姿に恵まれているせいもあり、彼女が外界~他者に対して抱くほどの敵意を向けられることは少ない。
(喧嘩を吹っ掛けない限りにおいて。寧ろ親和的関係を望んで近づく人間の方が多い)。
彼女の姿勢としては、基本的に他者に対する壁を作って日常を送っている。
大変、共感できる存在である。
わたしもほぼこれに近い。
彼女と同様にわたしも毒親による幼少期~少年期における虐待(主に精神的)により随分精神の基盤に痛手を負った。
それは修復不可能なレベルである。だが、生きてゆくには次の場所に展出してゆくしかない。

さて彼女はこれからどうしてゆくのか。
別に何も起こらないドラマであるが、われわれにとっても実際にあるのは、淡々と反復する日々の生活だけである。
何が変わるでも、起こる訳でもないことも知っている。
どうにもならないし、また明日も実に下らない連中が下らない話をし下らないことをして一日を終えるのだ。
誰もそれほど変わるものではない。人間である以上。
彼女の謂うように、「どいつもこいつも下らない!」のだ。
泣きたくなるのも分かる。わたしはもう歳でカラッカラに乾き切ってしまったが。喧嘩も面倒でやる気がしない(笑。

人間と言うレベルがそもそも宙吊りで寄る辺なくぼんやりし過ぎているのだ。
わたしもこれまで社会~家制度、法やパラダイムをかなりの元凶と制約として感じて来たが、そんなレベルで解消できるものではないように思える。
人間と言う幻想形式そのものが、余りにあやふやであるところから来る本質的な受苦なのだ。きっと。
だからと言って宗教に縋れば何とかなるなんてことは断じてありえない(更に後退し疎外を深めるだけ)。
人間と言うのは、不可避的にあらゆる枠からはみ出てしまうもの。つまり身体性(知覚認識)では感知できないことを知ってしまう。
そこでは感覚や直観は一切役には立たない。人間的な身体性に飼いならされた表象からは気づけないそれが立ち上がる。
実体は、今一番展望のある統一理論、量子重力論が見出してくれそうである。芸術にも期待は掛けたいが。
勿論、紀元前300年ごろにすでにその理論に直結するほどの認識を得ていたデモクリトスのような大天才はいるのはいたが、例外中の例外であろう。
プランクスケールでは、時間も空間もなく、場の量子の相互作用により初めて時空間が生み出される、この共変的量子場という実体が世界を現象させている。量子という最小単位は離散的に存在しており、連続性はない。つまり永遠とか無限とか言う概念も消え失せ、特異点も無くなる。多くの宗教が依拠する概念も全く説得力を失う。輪廻転生とかカルマとか前世だの、、、の戯言も全て消え失せよう。当たり前だ。人間は一回生きて一回死ぬだけ。それ以外の何ものでもない。死ねば量子に解体するだけ。意識~情報の保存に関する理論は、今後に待ちたい。「情報」が今一番のトレンドであろう。
われわれ人間の通常の感覚~知覚などでは、地球が球体で重力により地表に張り付いており、その地表が大変な速度で自転し公転していることなど感じられない。太陽系自体天の川銀河の辺境にあって、凄まじい速度で(太陽が自転と公転して)2億年くらいで一周するようだが、その銀河はアンドロメダ銀河に接近しておりそのうちに衝突してひとつの大きな銀河を形成するという。我々の銀河は、ケンタウロス座(ウミヘビ座)の方向にある巨大重力源(確か1億5000万光年先であったか)グレートアトラクターにこれまた大変な速度で引っ張られて移動している。
しかし実は更にその奥、(数値はうろおぼえであるが6億5000万光年先の)シャプレー超銀河団に引き寄せられているのだ。
だが、その引っ張りを一方で押し戻すダイポールリペラー(双極反発子)と呼ばれる力も発見されている。
何が言いたいかと言うと、われわれは飛んでも無い速度で宇宙をピアノ曲線を描くように飛び回っているのだ(太陽の周りをのんびり回っているだけではない)。
静かに椅子に座っていなさい、とは謂うが。それは飽くまでも地表に対して止まっていろと言っているだけである。
(余りに当たり前のことを言っているが、微視的にも巨視的にも、これが人間~身体性の限界である)。
大変粗雑に思いついたことを激速で書き連ねてしまったが、、、要は、人は中間領域~近似的というかぼやけた領域に現象している存在であり、何もかもがあいまいでしかないのだ。その次元に初めて析出してくるのが時間と空間のようだ(熱力学~エントロピーが関与するため)。この時間と空間をアプリオリな枠と前提して生きているうちは、なにも変わりはしない、救われない恐らく。多くの戯言に囚われ虚妄に塗れて生きてゆくしかない。人間として。
恐らく、人間的な苦悶は全て「人間」のレベルに囚われた意識と思考によるものだと考える。
人間をまず止めることから始めたい。
ほとんど映画とは関係ない(ないわけではない)話になった。細かいところが雑になったがそのうち整理して書き直すつもり。

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