ドライブ・マイ・カー

Drive My Car
濱口竜介 監督・脚本
大江崇允 脚本
村上春樹「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』所収 原作
石橋英子 音楽
西島秀俊 、、、家福悠介(舞台演出家)
霧島れいか 、、、家福音(悠介の妻、脚本家)
三浦透子 、、、渡利みさき(ドライバー)
パク・ユリム 、、、イ・ユナ(舞台俳優、コンの妻)
ジン・デヨン 、、、コン・ユンス(プロデューサー)
ソニア・ユアン 、、、ジャニス・チャン(舞台俳優)
安部聡子 、、、柚原(プロデューサー)
岡田将生 、、、高槻耕史(舞台俳優)
久しぶりにじっくり腰を据えて観る映画であった。
上映時間は長めであるが、全く長さを感じさせない。
無駄がまるでない。非常に緻密な吸い寄せられるようなそれは見事な脚本、演出であった。
これほど深い味わいのある映画は何年ぶりだろう、、、。
(最近の邦画では珍しい)。
光景を清め走破する赤いサーブ 900 ターボのひたすら美しいこと。

『女のいない男たち』は未読。
広島を主舞台にする。
みさきに案内され家福が訪れたごみ焼却施設が印象に残る。
その広島市中区吉島のごみ焼却施設は、原爆ドームと原爆死没者慰霊碑を結ぶ平和の南北軸の延長線上にある点。
平和の軸線を遮らないよう建物の中央を吹き抜けのデザインにして海まで届かせる、その景観に圧倒された。
この映画ロケーションが凄い。
車が良い。赤いサーブ 900 ターボ(スウェーデン)である。
このクラシックな車の走る真っ直ぐに伸びる道や夜景、雪山全てが絵なのだ。
舞台の間の専属ドライバーとなったみさきが、この車大事に乗られているのがよく分かって、わたしも好きですと言っていたが、如何にもそれが滲み出ている車であった。
その車の中で、家福は、妻に相手役の台詞部分をカセットテープに録音してもらい、自分の台詞でそれに答えながら台本を覚えてゆく独特の方法をとっていた。

多言語演劇は、上にあるスクリーンのテロップ読まないと話の内容が分からぬ点で、ちょっと集中し難くないか心配した。
韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、ドイツ、マレーシアのキャストで構成される舞台劇。
ここには手話すら含まれる。
となると、もはや理解は言語に頼るべきではない、ということか。
確かにことばは心許ない。いやことばで失うものが怖い。沈黙のままやり過ごしたい。これは分かる。
チェーホフである。やはりことばの意味は確認したい(笑。

音は、家福とこころから愛し合っていたが、他の男の肉体も必要としていた。
娘を肺炎で亡くしてから全ての歯車が狂ってしまっていたようだ。
(ドライバーのみさきが丁度娘が生きていれば同じ歳であった)。
この現実から彼は逃避を試み、結果的に音も死なせてしまった悔恨の情に苦しんでいた。
音が死んだ日の朝、彼女が決意を込めた様子で帰ったら話したいことがあると言っていたことが怖くなり、直ぐに帰宅しなかったのだ。音は果たして何を告げ知らせようとしていたのか、永遠に聴けなくなったこの事実は時と共に重みを増すだろう。
同様に地滑りで家を圧し潰されたみさきも母の救出のタイミングがあったにも関わらず動けずにいて結果的に母を死なせてしまう。
(虐待を続ける水商売の母が自分の送迎の為に、みさきに車の運転を叩き込んだのだった)。
彼女はこの時の災害で負った頬の傷はわざと残したままにしていた。
深い傷を秘めて生きる人間は少なくないものだが、ふたりは似ており、引き合うものがあった。
ふたりの動けなかった訳は共感できる。

しかし前に進むには、自分自身のこころとしっかり対峙する必要があった。
これは、家福が音との不倫関係にあったと信じている高槻の諭すところでもあった。
その時は素直に受け入れることは出来なかった家福である。
しかし高槻が傷害罪で逮捕され舞台に穴が開き、自分が代わりに出演するかどうか決断を迫られた時、みさきの故郷に行き互いに、母と妻をみすみす殺してしまったことを打ち明け合うことで感情が解放され、はっきりとこころに向き合う。
やはりことばで、はっきりと対峙し意思を伝えあうしかないのだ(なかったのだ)。
そうしなければ後悔にずっと苦しみ続けて生きるしかない。
舞台は主役の高槻の代役を家福が見事に果たし、それを客席でみさきが見守っていた。

みさきが家福の車に犬と一緒に乗ってスーパーで買い物をたっぷりして笑顔で帰ってゆくエンディングであったが、みさきの頬からは傷も消えていた。
再生がテーマであったか。わたしもあやかりたい(笑。
岡田将生が頑張っており際立っていた。狂気すら感じられる。
西島秀俊は、流石に安定していて、安心して任せられる。
三浦透子が凄味があった。若手女優にはホント才能のある人が多い。
音楽(特にエンディング)も素晴らしく、稠密な時間であった。
AmazonPrimeにて
勿論、意思疎通の絶対的に不可能な畜生にも劣る輩は一杯いる。
特にうちの斜め前の糞輩などその見本である。
、、、、、、
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