裏アカ

2021
加藤卓哉 監督
高田亮、加藤卓哉 脚本
瀧内公美、、、伊藤真知子(アパレルショップ店長)
神尾楓珠、、、ゆーと/原島努(大手デパートの営業)
SUMIRE、、、新堂さやか(後輩のカリスマ店員)
田中要次、、、北村(アパレルメーカーのオーナー)
職場でやり手の後輩に仕事を奪われ、自分の意見など誰も耳を貸さなくなってきた。売り上げも落ちている。
仕事一途でやって来て気が付けば、相応に歳もとっている。あらゆる面で行き詰まり感に襲われた。
焦りと鬱積を晴らすべくSNS上で違う自分になる。
Twitterの裏カウントを作りそれにきわどい自分の写真を投稿することでフォロワーが増えてゆきそれにのめり込んでゆく。
承認要求をそれで満たせるものか。
その過程で会いたいという男性と会う。
そこで思い切り自分を解放出来たことは良かった。

一度切りという約束だったのに、未練があって引き摺る。
所謂、自分の殻を破り、躍進の為の第一歩にするというのではなく、寂しさを紛らわすというより、自分を受けとめ認めてくれる対象が欲しい。あわよくば恋愛対象として、、、という気持ちが膨らむ。
この辺の流れは分かるが、この相手では無理であり、だからと言って惰性で他のDMをよこす有象無象と関係を持っても虚しさが増大するばかりであろう。
最初の出逢いでさっと切り上げるべきであった。
裏の虚構世界に長居は禁物だ。
表で勝負できるチャンスに賭けるためにも。

ダラダラ続けることで、ドンドン沼に嵌ってゆくし、劣情を刺激しついには大事なところで病的なオタクに足を掬われる。
ここでもやっぱりな、というところで被害に遭う。
折角の大手デパートとのコラボレーション企画で大成功を収めたそのレセプションパーティーでこれである。
大恥どころではない事件である。人目や評価ばかり気にしている人間にはたまったものではない。
この顛末がどうなったのか、はっきり噺の中で描かれていなかったが、普通はヒロインなのにそれなりの処分が下されてしまうだろう。

「ゆーと」という裏パーソナリティこそ原島努の本質であり、極めて虚無的で退廃的で刹那的な男である。
全てに価値が見いだせない。何をやっても虚しい。
何をやってもそこそこ出来て認められて必要とされてきたが、それが何なんだという感覚。
この「ゆーと」の感覚は良く分かるし、それ自体何も特異なものではない。普通だ。
寧ろ問題なのは、自分が何にも感動出来ない無感覚なところに耐えられず刹那的な衝動に突き動かされ無駄に生きていることである。能力があるなら、そういう自分を形成している社会の構造に目を向けたり、心理学的な追及をしてみたり、哲学的な分析に及んだり、芸術的な昇華・探究を図ったり、自分の事などに囚われず、物理的なレベルからこの世界の本質を見極めようとする方向に進むのも充分ありではないか(勿論何をやるにも何からも中立した思考運動を必要とする)。

今、何をおいても面白いのは、量子重力理論系の噺である。この話題に首を突っ込む価値は無限大である(無限は否定されたが(笑)。
自分が認められない受け入れられない大事にされない、などという詰まらぬ欲求などに足をとられている場合ではない。
もうどのような感覚も直観も遥かに及ばない世界の実相についての真理が明かされそうなのだ。
地球が平たく静止していて、空を太陽や月が回っていると思っている人間は、流石にいなくてもほぼその感覚で生きている人間がほとんどだと思う。
何とか、身体感覚~認識レベルを理論的に探究・解明された世界の実相に近づけたい。
(日常感覚を超えるのは理論をもってするしかない)。
これはワクワクするワークでもある。
ともかく、下らんことに囚われてる暇などない。
勿体ない。

この映画で好感を持ち得たのはカリスマ店員の新堂さやかくらい。
後は、好きにしなさい、ってとこ。
SUMIREという女優さんには今後、主演でバリバリやってもらいたい。
「リバーズ・エッジ」で観てるけど、もっと出て来てもらいたいものだ。
そういえば、瀧内公美は「 グレイトフルデッド」でハチャメチャの熱演であった。若いころから見ると随分落ち着いた感じになったものだ。
彼女は体当たりの熱演が多いみたいだが、他の映画も観てみたい。
いずれにせよ、わたしって何?とか、本当の自分とは、、、など、もっとも下らん問いである。
内容的には、監督の意図はほぼ達成された作品だと思われるが、その意図・目的自体、わたしにとってはどうでもよい。
AmazonPrimeにて
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