ペトルーニャに祝福を

Gospod postoi, imeto i’ e Petrunija
北マケドニア・ベルギー・スロベニア・クロアチア・フランス
2019
テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ 監督
エルマ・タタラギッチ 、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ 脚本
モニカ・ロルベル 音楽
ゾリツァ・ヌシェバ、、、ペトルーニャ(引籠りの女性)
ラビナ・ミテフスカ、、、スラピッツァ(ジャーナリスト)
シメオン・モニ・ダメフスキ、、、ミラン(検察長官)
スアド・ベゴフスキ、、、司祭
ステファン・ブイシッチ、、、ダルコ(警官)
ビオレタ・シャプコフスカ、、、ヴァスカ(ペトルーニャの母)
男性だけが参加する祭りに女性が割り込んで、司祭の投げた十字架を取って祭りを混乱に陥れ、この後のゴタゴタがずっと続くが最後は唖然とするような呆気ない終わり方。
これって結局、どういう映画なのよと言うしかない変なもの。

ペトルーニャは単に大学出て32まで職に就かず、彼氏もいないだけの女性であり、特にどうこういうような変わった人でもない。
それくらいの引籠りの人などかなり日本にもいる。それがどうした、という感じ。(籠って食べ過ぎたきらいはあり、かなりの体重はありそう。食べ過ぎについてはわたしも同じで、人のことは言えない)。
それよりも問題なのが、彼女の母親である。これは典型的な毒親であった。
もうペトルーニャが生理的にもヒステリックに嫌っているが、よく分かる。
幼少時から娘の全てを支配し自分の思うようにして来て今現在も細かい事まで指図してくる、鬱陶しいことこの上ない存在だ。

彼女が外に容易に出れず、会社に勤めることが出来ないのも、この母との幼少時からの経験によるものである。
これは間違いない。そしてその当てつけに過食となり、太ってより外に出にくくなる。
彼女を独立した一個の存在として認めなかった母に対する怒りの表現でもあろう。
最後にはペトルーニャが大人になり、理解は決してし合えないけど受け容れるわと母を抱き寄せる。
大したものだが、それはこの十字架ゴタゴタ事件の際に若い警官ダルコと気持ちが通じ合ったからか。
自分を認め大事にしてくれる人が現れたのだ、精神に余裕が出来ると人は寛容になる。人を許せる。
彼女が男祭りに司祭の投げ入れる十字架を一番に取ってしまい、祭り自体を滅茶苦茶にしたのは事実。
これで教会や警察が動き、彼女を拘束したことから、ジャーナリストがここぞとばかり差別とか訴えて絡んでくる。
教会や警察は歯切れが悪い。ジャーナリストは男女差別としてセンセーショナルに騒ぎを広げようとする。

単にこれは伝統的に続けられてきた男性の祭りであるというだけのもので、イデオロギーに絡めて批判する事柄ではない。
結局、内容がチャチな為、特に議論も生むことなく、滑る。男性(父権)社会がどうのとか騒ぐ類のモノか。
当のペトルーニャもずっと十字架は取ったわたしのもの、と訴え続けて来たが、警官の彼氏が出来たとたん、司祭に返却している。
そもそも、何故彼女は男性だけの祭りに乱入し、十字架を取ったのか。
本人も騙るように、無意識に川に飛び込んで取ってしまったのだ。理由もなく。
母に無理強いされた就活で失敗、落胆した帰りの混乱の中で思わずしてしまった事故だ(心身喪失したみたいに歩いていたし)。
しかし、取ったことで、何かのご利益があるという希望も芽生えたはず。
宝くじに当たったみたいな意味で。だからツキを手放したくない気持ちから十字架を誰にも渡さなかったというところか。
更に母親が世間体を気にし、それを凄まじく批判したことで余計に意固地になったのだ。

結局、ペトルーニャに彼がようやくできたというだけの噺か。
どうでもよい祭りに女性がひとり乱入したことで、男どもが過剰に反応し、警察と司祭が中途半端な対応で混乱だけ大きくし。
ジャーナリストがチャンスとばかり絡もうとしたが成果も出ず、、、何なんだという映画であった。
ユーゴスラビアの風景と感性というか、感覚みたいなものに触れた気がした(笑。
面白いといえばそうだが、退屈でもあった。
Wowowにて
いや、やはりペトルーニャとは、妙なヒトである。
マネキンの上半身をずっと抱きながら男性の祭りに割り込み、水に飛び込んで十字架を手にするが、、、
当のマネキンは、微笑んだまま横向きに川に浮いているのである。これインパクトがあった(笑。
この宙吊り感が、この映画を象徴しているような、、、。
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