ブリューゲルとは何者か?

ピーテル・ブリューゲル
1525-1530 (フランドル)
最近スペインで新たなブリューゲルの絵が発見されたという。
ブリューゲルのワンダーランド!
これは不思議の国のアリスどころの話ではない。
人間の繰り広げる、中心のない放埓さのすべて。
常に最期の勝者におさまる「死」。
これをあらん限りの知見と技量を用いて表現しつくしている。
次から次へと出てくる突拍子もないもの、とその行い。
細部への徹底したこだわりと、全体性。
未知の物も、想像上の物も、希少な物もそこいらをほっつき歩いている物も全て分類せず織り交ぜて作られた世界。
言葉、含蓄のある諺を使ったとてつもない遊び。
そして子供たちの魅惑的なごっこ遊び。
とても活気のある群がる元気な人々。
しかしこれはつぶさに見れば、
ブリューゲルのワンダーランドではなく。
われわれの意識にとって極めて自然で健全な状態の世界だ。
想像上の物と現実にある物とを分けたところで、希薄な現実と濃密な想像(創造)物とで、どちらがリアルであるか。
「反逆天使の転落」では目の覚めるような、奇想天外な組み合わせによる、Creatureたちの宙を乱舞する姿が圧巻。
ヒトと昆虫が合わさるところなど、既視感があってもなおも新鮮なである。
心震わす不思議で懐かしいものたち。
彼の絵の中にいる子供たちと一緒になってめくるめく遊ぶ感覚。
ブリューゲルのイメージはあらゆるところで引用され消費されているがまだまだ尽きることはない。
ブリューゲルの混沌としたワンダーランドからは無尽蔵に溢れ出る。
一角獣やフェニックスやサイやゆるキャラも網羅して飛び出てくる。
科学もフィクションもファンタジーも一緒くた。
「ネーデルランドの諺」には、85もの諺が絵で表されている、これも楽しいものだ。
見るとだれもがみな、他人には関心がなく、自分のやっていることに閉籠っている。
ブリューゲルの洞察力に基づく、寓話、風刺、諧謔が利いた、この当時盛んに言われた「世界劇場」ととれる。
勿論、今に通じる。
「バベルの塔」は丁度、キャンバスの上限まで描いてしまったもので、永遠に中断してしまった。
確かに共通の言語を奪われれば、天にまで達しようとする塔など作れるはずはない。
大変な上空から見た建設途上の塔の姿だ。
作業員ひとりひとりの様子が良く分かるが、建設材を持ち上げ組んでゆくテクノロジーが大変精確に描かれており、極めて理にかなった建築現場であることもはっきりしている。と同時に、鍋で何やら料理をしていたり、洗濯までして干し物を干している者もいる。
この塔ひとつだけでも人間の全ての営みを理知的に描ききろうとする彼の姿勢が窺える。
しかし後期になると、「農民の踊り」のような画家の視座と同じ高さで描かれる対象が描かれる。
知的な俯瞰を辞めている。
それは、彼がさらに事象のありのままに迫ろうとしたためか。
ここでは農民のありのままのエネルギーをそのまま描こうとした。
これまでも、単に奇想天外を狙おうとして描いたものはなく、意識(無意識)にとってのありのままを追求して描いてきた過程であるが、それは「農民の婚宴」に如実に現れる。
もう食欲丸出しで食って食いまくる農民たちの迫力漲る姿が活き活きと描かれる。
ルネサンスの上品な伝統的絵画にはヒトが大口開いてものを食っている姿など有り得ない。
彼の人間に対する基本的な愛情が素直に見て取れるものである。
わたしの大好きな「雪中の狩人」
見れば14匹の猟犬を引き連れて、獲物はたったの一匹の狐である。
お目当ての鹿はダメだった。それが彼らの足取りに現れている。
しかし彼らが向かう村の情景はとても楽しい。
煙突に登って火を消そうというのか屋根まで登ってゆく人たちの姿。
子供たちのスケート、コマ回し、カーリング遊び。
活動的で元気な人々の日常が広がっている。
これらを見ると、ルネサンスのわざとらしい、気取った、偽善性をもった一面が逆照射される。
そして「死の勝利」
異教徒たちの絞首台。彼の絵には異教徒のぶら下がる絞首台が多く描かれる。
ファンファーレを奏でる骸骨たち。
そう、溢れ出す夥しい骸骨。
この人間的な骸骨たちを見よ。
あらゆる争いの最終的な勝者は「死」である。
しかしブリューゲルはこれでわれわれを突き放したまま終わらない。
有名な「絞首台の上のかささぎ」である。
ここではもう誰も絞首台にぶら下がってはいない。
大変長閑で美しい農園が広がる。
牧歌的な農村の優しい風景である。
その絞首台の下で屈託なく踊りを楽しむ村人たちの無垢な姿。
よく言われるように、絞首台の上に一羽泊まるカラスはブリューゲルか?
妻に残したその最期の絵がブリューゲルの ワンダーランドの行き着いた果なのか。

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