冬のほつれまで

2020
多持大輔 監督・脚本・編集
青根智紗、、、根本(自閉症児)
北崎京佳、、、クラスメイトの女子
近藤奈保希、、、売店のおばさん
音がやたらデカいが、聴き取りずらい。音の解像度がとても低い。
その辺、イラついた。
その分、色調が落ち着いていて観易くて助かる。
ディテールに独特のもどかしさも感じたが、、、。

ジャームッシュの映画、「パターソン」とかは大好きだが(こちらは詩だ)、この映画は(絵に置き換わったとかいうわけではなく)、生理的にイラつくことが多い。
元々比べる映画ではないが。
これは、単なる「自閉症児」の生態をドキュメンタリータッチで描いているに過ぎない。
余りに典型的など真ん中の「自閉症」だ。
ここに過剰な意味を掘り出して見せるのは滑稽なだけである。
それより、根本さんが「自閉症」であることは、どれだけ周知されているのか?
そこが問題である。
周知されているとは思えないのだ。
クラスメイトの女子が普通の無口な子に話しかけるように何度となく執拗にコミュニケーションを図ろうとしてくる。
決して暴力的にならず、繊細に相手の日常や趣向をもとに自分もそこに興味を抱いていることを伝え、分かち合いたい趣旨を伝えている。ここに何ら非難すべきところなど無い。
(よく発達障害など精神的、知的障害を持った人が、それに対する理解を欠いた人による暴言や行為などで酷い状況に追いやられるケースがある。人の違いを認め、適切な関り方が求められることが重要であり、不当な差別も排することが出来る)。
しかし何故か虐めもなく伸び伸びマイペースで生きているのも窺える(これは良い事だが)。

ただ、自閉症に普通に話を持ち掛けても何の成果もない。
そっとしておくことがもっともよい関りだ。
顔(表情)はほとんど映さず、手や足だけの描写が目立つが、そこに何らかの饒舌なきもちが表出されている訳でもない。
少し押し付けがましさを感じるところ。
根本さんが、息苦しいほどのルーチンで固めていることはよく分かる。
学校には誰よりも早く登校するのか。いつもの観葉植物のスケッチ、カッターで削る鉛筆、お決まりのマシュマロにジュース、必ず自前のストローを使用、校庭の古い木に隠した蜂蜜(森の小動物みたい)、放課後のメロンクリームソーダ(注文はどうしているのか)、、、売店のおばさんの今日の占いは呼び止められると素直に聞いている、、、等々。ここに時折、クラスメイトの女子が絡むが全くの無反応。残酷なまでの完全無視。

彼女の放課後の喫茶店でのルーチンで、ホンの束の間、隣の席の会話に耳を傾ける。
他者に全く興味がないという訳でもないようだ。
その他者たちも、単に自分の思いだけぶつけて相手の気持ちを察する気などなく、一緒にいてもまるで噺が噛み合わない。
所謂、ディスコミュニケーションの顕な様子が晒されているだけ。
ここに登場する人で、気持ちを相手と分かち合いたいと望んでいるのは、あのクラスメイトの女子だけではないか。
この映画、他のクラスメイトや担任、彼女の家~両親とその関係など一切映さない。スッキリ切り捨てている。
(斬新な潔い構成だ)。
他の人間との関係と敢えて謂えば、よく喋る売店のおばさんくらいで、この人は彼女のことを認識して関わっているようには思える。
(とは言え、引籠りが殺人事件を起こしたニュースを取り上げて、無神経振りは発揮していた)。
根本さんに殊更興味を示し関ろうとしてくるその女子も抱え持った問題を強く感じる。
親近感を彼女に覚えていることは確かに見て取れるものだ。しかし自閉症に相手の気持ちを推し量る気など毛頭ない。
彼女は、何としても根本さんをこちらに向かせたいがため、彼女のスケッチブックをクシャクシャにしてしまう。
明らかに自分がやったことが分かるようにして。幼い発想というより彼女なりの究極の賭けに出たと言えよう。
それを見つけた根本さんの仕草はちょっと落ち着き過ぎであるが、一枚一枚剥がして、紙を平らに手で伸ばしつつ絵の輪郭を指で撫でることを只管繰り返す。

そしてクラスの扉の前で根本さんの好物のマシュマロを食べながら座り込んで待つと、彼女がやって来て「スケッチブックがクシャクシャになってたのを見たぞ」とか、すごんでマシュマロを一つ取り上げて食べて行く(笑。
その女子はとても不安げであった表情を緩め、ついにやったという達成感みたいなものを滲ませていた。
ホントよくやったと思う。しかしなかなか自閉症があんな返しはしない。
というより、あるべきものが違うかたちとなっていたことを発見した時点で、大パニックになるものだ。
ルーチンが何らかの障害で乱れた場合に同じく。
もしそれほどの自閉でないとしたら、最初の頃に彼女に対し「悪いけどわたし一人でいたいの。ほっといて」とか言っておくべきだろう。そうすればあの子も振り回されることもなく、他の自分に近い子を探して関わっていただろう。
売店のおばさんが今日は1位のとても良い日だと喜んでくれた日の出来事である(笑。
意図的にやっていることは分かるが、それが説得力を増したり、感動的だったり、印象に残ったり、心地よかったりするものに繋がるとは限らない、、、。「冬のほつれ」ねえ。
ほつれれば、それに越したことないが。
今日はいつもより長めの67分の短編であった。長く感じた(笑。
AmazonPrimeにて
急に思い出したのだが、、、
大分以前、わたしのブログのコメントに、何に対するものか何のためか分らぬ長文をダラダラと載せて来た馬鹿がいた。
その頃は、何でも温厚に済ませる姿勢で当たっていたため、他でやってくださいとか言って終えていたが、今であればあのような愚劣な暴挙は断じて容赦しない。
あの駄文から馬鹿だということは了解するが、一体何を狙っているのか、単に相手構わず自己表出でもしたいのか。それによるチンケな承認願望を充たそうとか(余りに浅はかな、、、馬鹿だから仕方ないにせよ)迷惑至極な話だ。
殺意を新たにした。
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