圧倒的な廃墟論

愛しの“Folly”~廃墟論その美学的見地 Ⅱ
”Folly”というものは、確かロックの歌詞でかつて見ましたが、(ジェネシスとかで)それがなんであるか知りませんでした。
なんというお洒落なものでしょう?!
そう言えば、ほど近い公園にそのような”Folly”がありました。
わたしは苦し紛れにトマソンとか呼んでいましたが、意図的な建造物か、ただ打ち捨てられ本来の用途を失ったものかの違いは明白です。
上に貼らせていただいた「廃墟論」まさに圧倒的なものです!
数行引用させてもらい、それについて語ろうと思っていたのですが、それ自体無意味と知り、まるごと引かせて頂きました。
ここに書かれていることは、すべてまさにその通り、よく言ってくださった。
というものです。
ということで、めでたくわたしの舌足らずな廃墟に関する覚書も終了させてもらいます。
と、言いたいところなのですが、上のエッセイの説得力に溢れるイディオムにやはり時間性と自然があります。
わたしが、しまったと思ったのは、時間と絡めた「自然」という概念をしっかり採り上げなかったことです。
まさにこの「自然」こそが、廃墟を知るになくてはならない概念です。
単なる自然ではなくはっきり概念として摂りだした「自然」です。
「時間」もそうですが。
自然について書いていても「自然」として抽象しなければなりません。
特に圧巻なのは、「人為が自然に同化し
得も言われぬ一体感が醸し出される場所は
その深意を増すように思います
果てしのないような虚無感が呼び覚まされ
支配するのは時間だけという世界」
このくだり。
さすがとしか言い様がありません!
「廃墟」に関してはこれだけで十分に言い得ています。
そして
「空間上の建築というよりも
時間軸上の建築といった色彩を帯びるもの 」
そこだと考えます。
まったくです!
また、重要なことは、廃墟を観察する当事者の問題。それを含んでの廃墟現象。または、事象です。「場所」です。これもしっかり記されています。量子力学的な考察です。
そのうち余裕があれば、改めてわたしの書いたものをまとめて載せるつもりです。
明らかに、書くごとに整理していった部分はあります。
1について、明確になっていなかったイデオムを、2で訂正していますので、そのへんをまとめたい気持ちはあります。
が、当分は違うことを伸び伸び書けそうです。
ありがとうございます。

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