トーク・トゥ・ハー”Talk to Her ”を観る

Hable con ella(Talk to Her)
2002年
スペイン
ペドロ・アルモドバル監督・脚本
ハビエル・カマラ 、、、ベニグノ(看護士)
ダリオ・グランディネッティ 、、、マルコ(リディアの取材にきて恋人となる)
レオノール・ワトリング 、、、アリシア(昏睡状態のバレリーナ)
ロサリオ・フローレス 、、、リディア(昏睡状態の女性闘牛士)
初っ端のバレエが良かった。勿論、エンディングのバレエも。
途中の無声映画も腑に落ちた。
特に最初のバレエから惹きつけられる。
絶望に打ちひしがれた女が2人思い思いに躍る。
信じられないほど悲しい表情の男が彼女らの踊りを妨げるであろう舞台上の椅子をぶつかる直前で次々に退けていく。
音楽は全般に良い。
ラテンとクラシックともに染み入るように調和している。
絵も綺麗だ。
美しい映画だ。
珍しく愛を感じられる映画だ。
とは言え、自分が常識を弁えた大人であり、健康・健全な社会人を自負しているような人間には全く面白味などない映画だ。見ないほうがよい。
大きな喪失感、自分の中に修復不可能なものを抱えつつ、取り返しのつかないところまでズレてしまいながら、過剰に究極を求め、至高を追求したい体質の人間には、ほっとする世界である。違和感などこれっぽちも感じない。
愛の形で究極的なものは、動物、人形、子どもに対する愛だ。
中途半端な、節度のある愛とか、常識的な愛とか、、、そんなものは所詮自己保身が先にあるもの。
愛はその言葉の本質から必然的に究極を目指す。
無私の一方的に与えるだけの愛。
マザーテレサやガンジーがどうであったかほともかくとして。
狂気や常軌を逸した形になるもの。
この人形ー植物状態の人間に対する愛は、単なる自己の欲望の捌け口レヴェルで始末されるものではない。
犯罪で片付ければそれまでだ。
自殺した主人公は、普通に生活していた彼女とは絶対に指一本触れることは出来ない。
全く固有の時間が交わることはない。これは確かだ。
だから彼が、彼女が植物状態になっても変わらず愛した、ということではなく、彼女がそのような人間人形の状態になって初めて彼女は彼と同次元の存在となり、同じ場所、生きられる時間が一緒になり、語りかけられ触れられる身体性をもつことになった。
彼女が人間としての機能不全となったところで、もともと人間としての機能不全である彼の時間流と合流したまでで、これは一方的とかなんとかいうものではなく対称性を保つ関係性によって成り立っている。当たり前な関係である。
彼は見返りなど全く求めず献身的に彼女に彼女の好きであったことについて語り続け、介護献身を怠らない。
それは当然であって、人形を愛する人はみなそんなものだ。
彼は無意識的に生理的にも人形しか愛せない体質だ。
何故、ではなくそうなのだ。それが前提なのだ。
彼は普通に五体満足に生きているように見えるため、その欠如・過剰性に気づかれにくいが(感覚的に匂わせているが)、人間としての喪失・破壊は極限的に進んでいる。そういう存在はこれからますます増えて行くはずだ。
その彼のある意味機械的な思いが一歩を踏み出し(無声映画にも連動し)結果的に彼女を妊娠させたことが、彼を社会的にも肉体的にも葬り去ることとなり、彼女を日常生活に活き活きと蘇らせることとなるのは、皮肉に感じるが、まさにその通りであると納得させるものである。
これが真理である。
カフカの「変身」のラストもまさにこの通りであった。
何とも言えない清々しさも。
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