廃墟に関して
廃墟は、それ自体の独自の美を纏っている。
恐らくそれが廃墟となり新たな固有時を宿してから。
それはなにも風化を待つばかりではなく、
いつもの日常にもワームホールのごとくに思わぬ場所に存在する。

あからさまな廃墟にも、自分が以前それに関与していた――子供時代遊んだなどの記憶の沁み付いた――記憶(ノスタルジー)のある様相のはっきり変化したことを知っているもの。ただただ歴史の見えない暗黒の恐怖を覚えるものなどがある。
(大きくするとその不気味さが窺えるはずです。)
追憶と物悲しさや恐怖さえ感じる畏れの感情を呼ぶ廃墟。
これらは、時間のありかたの問題と言える。その永遠性と凍結。

廃墟は、その多くが写真でしか観ることがかなわない。
もはや近づけない。
入ることが出来ない。
危険である。
写真に撮るとなると、様々な技法の介入する余地がある。
それをあまりに華麗に撮ることはかえって危険である。
廃墟自体の時間性その美を隠蔽してしまわないか?
ファンタジーにしてしまってはせっかくの廃墟がもったいない。
廃墟とは面白い。
われわれのなかに廃墟を希求する意識は確かに存在するようだ。
何気ない写真にもそれを感じとり、絵にも廃墟を描いている訳ではないのにそれをはっきり嗅ぎ取る。

ポール・デルボーは何処に行っても廃墟だ。骸骨も一緒だし。

キリコについても、ヒトすら廃墟――形而上学的人形だ。

フリードリヒこそ最高の廃墟画家だ。彼は廃墟など描いてはいないが、描く絵すべてが廃墟だ。
その時間性からか。つまりその永遠性から。
映画においても、タルコフスキー映画には廃墟しか出てこない。
民家や教会、城ばかりではない。
宇宙船や惑星までも。
タルコフスキーこそ廃墟映画作家だ。
彼の時間の扱い方こそ、恐らく廃墟制作の鍵となっている。
廃墟とは何か。廃墟の何にわれわれは惹かれるのか。
先に述べた何気ない日常に潜む廃墟とは、わたしが最近休日の歯科治療に行ったところがまさにそれであった。
そのメディカルセンターの歯科治療室がはっきりと廃墟に思えた。
待合室からして、何か異様な雰囲気であり、休日という特殊性、椅子等の物に対して広すぎる空間。
当日、10人程度がわたしの前に待っていた。
これは待つぞと覚悟を決めていたら、思いのほか早く通され、診察室はというと、さらに広くガランとしていた。
6つの診療シートが無駄に広すぎる間隔をおいて設置されており、そのならびに手洗い場や血圧を測る場所まで組まれていた。その上、実際に使われているのはどうやら2席で、後の4つは使われた形跡のない、ビニルが部分的に巻かれたピカピカの新品機器のある席である。
つまり、殺風景な広すぎる部屋のほんの一部のみを使い休日治療が繰り返されているようだ。
しかも、輪番で土曜日に回ってきた医者2人と看護婦1人。
わたしがその部屋にいる間中、誰もほとんど口もきかなかった。最低限の指示をボッソっと。
恐らく週日の自分の病院では、和気あいあいに冗談なども言い合いながら仕事をしているのではないか。
ここでは、たまたま初対面同士であり、休日のため話す気にもならない、そしてこの奇妙な空間。
そんなせいもあるだろう。何かに耐えるように医者たちは秘密の任務を果たしているように見えた。
もちろん、わたしも大学病院の歯科でワンフロア50も席のある治療室に通っていたことがあるが、部屋に妙な隙間もなく、シートや機材に対しての相対的広さは微塵も感じられず、第一大変部屋中が喧しかった。
活気があり、日常空間以外の何でもなかった。
終わってから、ふとたまたまもっていたコンデジでこの異様な空気漂う空間、このエントロピーの行きついた果ての空間を撮りたい衝動を覚えた。しかし診察室をカシャカシャ撮るのはさすがに出来ないと諦め、挨拶して部屋を出た。
背中に何の声も返らなかった。
多分、空間配置の偏奇と時間性の緩みが心理的・精神的な廃墟への契機となってゆくのでは、
あの部屋が 何というか廃墟の初期の断面を見せていたのでは、と思う。
帰路につき漠然と気づくが、恐らくあそこのだれもが、すでに動かなくなっていたように思われた。写真はやはり撮るべきだった。Seasongわたしの”トマソン”専門ブログに是非投稿したかった。その光景を。廃墟の内面を。
これに関してはもう少し関わってみたい。生(なま)の時間性に出逢う廃墟、それに通底する日常性のズレに潜む廃墟性。
最後に外せないのが、ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージの廃墟の版画。
まさに極め付けである。

廃墟こそわれわれにとって重要な言葉である「時間」への感覚・認識を深める場所となるはずである。

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恐らくそれが廃墟となり新たな固有時を宿してから。
それはなにも風化を待つばかりではなく、
いつもの日常にもワームホールのごとくに思わぬ場所に存在する。

あからさまな廃墟にも、自分が以前それに関与していた――子供時代遊んだなどの記憶の沁み付いた――記憶(ノスタルジー)のある様相のはっきり変化したことを知っているもの。ただただ歴史の見えない暗黒の恐怖を覚えるものなどがある。

追憶と物悲しさや恐怖さえ感じる畏れの感情を呼ぶ廃墟。
これらは、時間のありかたの問題と言える。その永遠性と凍結。

廃墟は、その多くが写真でしか観ることがかなわない。
もはや近づけない。
入ることが出来ない。
危険である。
写真に撮るとなると、様々な技法の介入する余地がある。
それをあまりに華麗に撮ることはかえって危険である。
廃墟自体の時間性その美を隠蔽してしまわないか?
ファンタジーにしてしまってはせっかくの廃墟がもったいない。
廃墟とは面白い。
われわれのなかに廃墟を希求する意識は確かに存在するようだ。
何気ない写真にもそれを感じとり、絵にも廃墟を描いている訳ではないのにそれをはっきり嗅ぎ取る。

ポール・デルボーは何処に行っても廃墟だ。骸骨も一緒だし。

キリコについても、ヒトすら廃墟――形而上学的人形だ。

フリードリヒこそ最高の廃墟画家だ。彼は廃墟など描いてはいないが、描く絵すべてが廃墟だ。
その時間性からか。つまりその永遠性から。
映画においても、タルコフスキー映画には廃墟しか出てこない。
民家や教会、城ばかりではない。
宇宙船や惑星までも。
タルコフスキーこそ廃墟映画作家だ。
彼の時間の扱い方こそ、恐らく廃墟制作の鍵となっている。
廃墟とは何か。廃墟の何にわれわれは惹かれるのか。
先に述べた何気ない日常に潜む廃墟とは、わたしが最近休日の歯科治療に行ったところがまさにそれであった。
そのメディカルセンターの歯科治療室がはっきりと廃墟に思えた。
待合室からして、何か異様な雰囲気であり、休日という特殊性、椅子等の物に対して広すぎる空間。
当日、10人程度がわたしの前に待っていた。
これは待つぞと覚悟を決めていたら、思いのほか早く通され、診察室はというと、さらに広くガランとしていた。
6つの診療シートが無駄に広すぎる間隔をおいて設置されており、そのならびに手洗い場や血圧を測る場所まで組まれていた。その上、実際に使われているのはどうやら2席で、後の4つは使われた形跡のない、ビニルが部分的に巻かれたピカピカの新品機器のある席である。
つまり、殺風景な広すぎる部屋のほんの一部のみを使い休日治療が繰り返されているようだ。
しかも、輪番で土曜日に回ってきた医者2人と看護婦1人。
わたしがその部屋にいる間中、誰もほとんど口もきかなかった。最低限の指示をボッソっと。
恐らく週日の自分の病院では、和気あいあいに冗談なども言い合いながら仕事をしているのではないか。
ここでは、たまたま初対面同士であり、休日のため話す気にもならない、そしてこの奇妙な空間。
そんなせいもあるだろう。何かに耐えるように医者たちは秘密の任務を果たしているように見えた。
もちろん、わたしも大学病院の歯科でワンフロア50も席のある治療室に通っていたことがあるが、部屋に妙な隙間もなく、シートや機材に対しての相対的広さは微塵も感じられず、第一大変部屋中が喧しかった。
活気があり、日常空間以外の何でもなかった。
終わってから、ふとたまたまもっていたコンデジでこの異様な空気漂う空間、このエントロピーの行きついた果ての空間を撮りたい衝動を覚えた。しかし診察室をカシャカシャ撮るのはさすがに出来ないと諦め、挨拶して部屋を出た。
背中に何の声も返らなかった。
多分、空間配置の偏奇と時間性の緩みが心理的・精神的な廃墟への契機となってゆくのでは、
あの部屋が 何というか廃墟の初期の断面を見せていたのでは、と思う。
帰路につき漠然と気づくが、恐らくあそこのだれもが、すでに動かなくなっていたように思われた。写真はやはり撮るべきだった。Seasongわたしの”トマソン”専門ブログに是非投稿したかった。その光景を。廃墟の内面を。
これに関してはもう少し関わってみたい。生(なま)の時間性に出逢う廃墟、それに通底する日常性のズレに潜む廃墟性。
最後に外せないのが、ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージの廃墟の版画。
まさに極め付けである。

廃墟こそわれわれにとって重要な言葉である「時間」への感覚・認識を深める場所となるはずである。

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