藍色少年少女

Indigo Children
2016
倉田健次 監督・脚本
加藤久貴 音楽
柳田ありす、結城貴史 製作
遠藤史人、、、星野テツオ
三宅花乃、、、蒼井シチカ(福島の子)
広澤草、、、ミチル(ガラス工芸家、テツオの母替わり)
結城貴史、、、テツオの父
野田幸子、、、リンコ(テツオの母、事故で亡くなる、工芸家)
牧 雨泉、、、星野フミコ(テツオの妹)
前川正行、、、タヌマ マサカズ(芸術家)
市川遥、、、田端シュウ(テツオの宿敵、不良)
大塚宙、、、ヒロキ(いじめられっ子、テツオの友人)
、、、以下、テツオの学校の友達 「ふじのキッズシアター」の子役、、、
牧雨泉
佐優憲
後藤麦輔
倉田妃良良
早川小桜
後藤タイ
田中満ちる
神谷慧仁
神奈川県の藤野町(現・相模原市緑区)を舞台にしているとは、驚き。
あそこでやったんかい。異国情緒(何処かの離島感)たっぷりなので、どこなんだと思っていたら(爆。
柳田ありすという人の主催する「ふじのキッズシアター」の子役たちで演じられているとか、、、。

モノクロである。
主人公テツオは、(当時)外での遊びを制限されていた被災した福島の子供たちを、保養活動として迎える緑の多いフジノの町の少年である。
今年の夏休みも子供たちはバスに乗ってやって来た。
今年の企画でテツオは、福島の子供たちに演劇を見てもらうことになり、福島から来たシチカという少女と共に主役を任される。
「幸せの青い鳥」を舞台で演じることになったがどう演じてよいか分からず「かーちゃん」のミチルに相談する。彼女の勧めでテツオとシチカは、芝居の役作りも兼ねて青い鳥を町中回って探し始めることにした。
青い鳥を探すふたりがいつしか周囲の大人たちの心を動かし、それぞれが自分のやるべきことに気づいてゆく。

とてもテツオと仮想母のミチルとの関係がシュールであった。
確かに亡くなった実母リンコに雰囲気が似ているが、、、。
こういうこともあるかも知れぬが、ひとつの奇跡である。
母が東京に向かうバスに乗って帰らぬ人となり、同じ道端で自動車事故を起こしたミチルがその母の帰還だと受け取ったテツオ。
ミチルも大きなこころの傷を負った女性であり、ふたりはそのまま互いの役割を受け容れる。あくまでも一時の共犯関係を結ぶ。その内テツオはその関係が永続することを望むようになるが、そこはミチルが大人の分別を見せる。

テツオもシチカもその他の少年もよく走る。
大きな喪失によるトラウマを背負いながらも、全力で今できることを精一杯やろうとする。
子どもならではのパワーを見せつける。
トラウマなど要らないが、こうしたパワーを引き出す場というものは、子どもにとってかけがいのないものだ。
(哀しみや外傷経験は決して必須のものではない)。
このような場所はとても貴重だと思える。
柳田ありすの「ふじのキッズシアター」自体がこのような、子ども本来の力を活き活きと蘇らせる場として機能しているのなら素晴らしいことだ。

テツオの妹フミコはトトロのメイみたいな子だ。父の禁止した亡き母の部屋に忍び込み、彼女の日記を探し出し独りずっと読み続けて来た彼女こそ、現実を正面から果敢に見つめていた子であった。こういう子は強い。
タヌマ マサカズは、子どもとほぼ同一視線でものを観る事の出来る芸術家として登場している。こういう大人は必要だ。
ヒロキはテツオに救われるのをずっと待っていた。テツオの代役が務まるよう台本まで暗記して。
この気持ちは分かる気がする。自分独りでは動けないが誰かが手を差し伸べてくれたら直ぐにでも行動しようと待ち構える姿は。
ミチルは、“ 私や君が思ってるよりずっと、この世界は愛に満ちてるんだ”というヒトだ。
謎めいているがとても切なく優しい。母を亡くしたばかりのテツオが縋りつくのもよく分かる。彼女もそれに精一杯応える。
テツオはシチカが帰る最終日に早朝から自転車に乗り、自分の周囲の人々の救済にあたって行く。
彼の一押しで、大人たちもそれぞれ真摯に自分の現実に向き合ってゆく。
そう、テーマが魂の救済なのだ。
その日にミチルもテツオのもとから去って行く、、、。

こういう救済力をもった少年~お地蔵さんみたいなヒトは~いそうでいない。
恐らくテツオみたいな少年でなければ、タヌマ マサカズみたいな芸術家ではなかろうか。
さもなくば、ミチルのような工芸家。
大人はもう子供にはなれない。
しかし傷ついた少年期の傷を癒すには其の地層に共振し続ける魂がなければならない。

廃車置き場っていいなあと思う。子供の想像を膨らませるのにうってつけだ。
「ふじのキッズシアター」という共同体には可能性を感じる。
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