ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.
2012
庵野秀明、、、総監督・脚本・原作
鷺巣詩郎、、、音楽
宇多田ヒカル、、、主題歌「桜流し」
緒方恵美、、、碇シンジ
林原めぐみ、、、アヤナミレイ
宮村優子、、、式波・アスカ・ラングレー
坂本真綾、、、真希波・マリ・イラストリアス
三石琴乃、、、葛城ミサト
山口由里子、、、赤木リツコ
石田彰、、、渚カヲル
立木文彦、、、碇ゲンドウ
清川元夢、、、冬月コウゾウ
長沢美樹、、、伊吹マヤ
子安武人、、、青葉シゲル
優希比呂、、、日向マコト
麦人、、、キール
大塚明夫、、、高雄コウジ
沢城みゆき、、、鈴原サクラ
大原さやか、、、長良スミレ

これは、生きづらさの物語である。
歪で欠けている者に対する愛着。
コアな趣味とトラウマに対する執拗な拘り。
ディテールの飽くなき追及。
我慢できないメカオタク。
これらの綯交ぜとなったアマルガムの質量が全て創造エネルギーに変換される。
実際これは凄い。
めくるめく光景を現出する。

庵野秀明監督は作品至上主義である。
自分の命より作品の方が重い。
自分がやりたいことを全て注ぎ込むにせよ、それだけでは足りない。
自己実現が問題ではないのだ。目標でもない。
ほとんどの作家~監督がそこで充足してしまうだろう。
だが彼は不服を唱える。この生きづらさは自己を超えた先の場所に昇華されるはず。
補完計画が発動する。
様々な方法で、「普通」と感じてしまう凡庸さ~物語性を排除して行く。
自分がやる前に一度他者(勿論自分が一目置くその道のエキスパート)に任せる。
しかし「普通」と感じてしまうところには徹底してダメだしする。他者に任せた意味がない。
この段においては、もはや自分の想い(ストーリーとか筋道)に即しているかどうかではなく、感覚的にこれが「新しい」か「面白いか」で判断する。そして自分の外へと出てゆく。
試写をスタッフ全員で観て、それぞれの意見を聴く。
自分の思想は原作にあり、それは行き渡っているとはいえ、理解、把握状況はまちまちである。
全く新しい形で思わぬ具現化を狙いたいのだ。その先に届くためにも。

それを受けて台本を場合によってはゼロから書き直す。
アニメーションは、試写の段階なら何とかなるが、ここは実写と違い実に作業上大変なところ。
(実写の方がやり直し撮り直しは遥かに容易だが、表現の自由度~自在性からアニメを選択しているのか)。
手法の一つは、シーンを多角的に撮り貯め、徹底的にアングル操作で構築してゆく。
そう、観たこともない角度である。まさに多様で多角的な追撃。
そこに新たな光景~隙間が見出されるのだ。
説明では追い付かない。
今決められない。
やってみて分かることに賭ける。
だから時間はかかる。
常に難産。多くの死産の上での。

物語の内容が生きづらさを表現しているだけでなく、必然的に、この作り手たちの生きづらさもそのまま具現化されてゆく。
多くの苦悩の断片を集積した中から有機的に分節化された何者かが頭をもたげる。
この苦悩の表象は悪夢と同等の質量を持つ。
真っ赤な荒涼とした廃墟のなかを廃人のようなシンジの肩を抱えてアスカが救援場所に向け歩みを進める。
その後を、仮称アヤナミレイが虚ろな表情のままついてゆく。
シュルレアリストの絵画にもこのような悪夢の光景はあったが、更に救いがない。
完全な鬱から彼はどのようにして解かれ、この生きづらさから異なる場所に展出出来るのか、、、。

そして、始めたものは終わらせなければならない。
(恐ろしい宿命。しかし誰もが死ぬのだ。誰もの問題に他ならない)。
AmazonPrimeにて

宇多田ヒカの主題歌「桜流し」は、車の中でほぼ毎日聴いている。
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