コーヒーをめぐる冒険

Oh Boy
2012
ドイツ
ヤン・オーレ・ゲルスター 監督・脚本
マグヌス・プフリューガー 音響
トム・シリング、、、ニコ・フィッシャー(モラトリアム青年)
マルク・ホーゼマン、、、マッツェ(ニコの友人、役者)
フリーデリッケ・ケンプター、、、ユリカ(ニコの同級生)
ウルリッヒ・ノエテン、、、ニコの父
ミヒャエル・グビスデク、、、フリードリッヒ(コーヒーショップで知り合った老人)
カタリーナ・シュットラー、、、ニコのガールフレンド
大学の法学部を二年前に中退して、その後何をするでもなく、親の仕送りでブラブラしている青年がある朝コーヒーを飲み損ねる。
途端に運転免許が取り上げられ、銀行のカードが使えなくなり、彼女からそっぽを向かれ、、、寄る辺なくなり彷徨い出したところから噺が始まる。
これといった話ではないが、どこにいても居心地がどうもよくなく、違和感が募るがそれが何であるのかよく分からない。
その部分を淡々と描写してゆく。
モノクロで大変美しい絵画のような街並みに息を呑んだ。

コーヒーを飲もうとしても、常に何らかのトラブルで飲めない。
コーヒーは朝の目覚めの習慣でもあるが、その後の日常における人との接触~コミュニケーションの為のアイテムでもある。
絶妙なタイミングの不条理が続き、コーヒーをずっと飲み損ねてゆき、人との関りも異化してしまう。
この巧妙な不運~ズレはカフカ的でもある。

ニコ・フィッシャーは、付き合いがよいと言うか、友人に誘われると断れない。
基本、受動的に何にでも関わってしまう。
初めて遇うヒトとも、そつなく噺を合わせることは出来るが、その場をやり過ごす為であり主体的な関りはもたない。
父親に退学の件を内緒にしていたことでどやされ、支援を打ち切られるが、「何をやってたんだ」に対し「考えてたんだ」と返す。
モラトリアム青年である。
気持ちはとっても分かるが。

宙ぶらりんで漂っている青年であり、日常の個々の局面においてはもっともなことを言ったりするが、自立していない脆弱さが際立つ。
これは自己形成がしっかりできていないというところもあるが、周囲~規範とのズレに対して敏感である為でもあろう。
もっと言えば、ことばとのズレである。
こういう若者は、結構お年寄りと気が合ったりするものだ。
ことばのレベルではなく感覚的に。
その疎外された者同士の身体性において。
(コーヒーを飲むべき時に飲めないというのは、そこだ)。

印象に残るのは、最後に出逢うナチスドイツ時代に翻弄された老人に対する彼の共感である。
老人はドイツ語を喋っているのに周りの人間の喋るドイツ語が全く理解できないという。
よそから来たのか、ここを離れていたのか、と聞くと60年間離れていたと返す。
ベルリン生まれだというが。離れていたというのは、それまでの日常を失っていたということか。
そしてことばがもはや意味を持たないほどに変容してしまったということか。
それこそ底知れぬ疎外と孤独だ。
彼はこの老人に深く同調した。
結局彼は話終えると、店の外で倒れ亡くなる。身寄りもない老人で、看護婦にせめてファーストネームだけでも教えてくれるように頼むと、フリードリヒであるという。
ニコは、漸くコーヒーを飲むことが出来た。

脆弱さの強度がしっかり描かれていた。
監督の才能が光る傑作であった。
AmazonPrimeにて

- 関連記事
-
- 呪い襲い殺す
- フランシス・ハ
- コーヒーをめぐる冒険
- 庵野秀明+松本人志 対談
- 良い映画を観るとハードルが上がる