ザ ライト エクソシストの真実

THE RITE
2011
アメリカ
ミカエル・ハフストローム 監督
マイケル・ペトローニ 脚本
マット・バグリオ 原作
アンソニー・ホプキンス、、、ルーカス・トレヴァント神父
コリン・オドナヒュー、、、マイケル・コヴァック (神学生~エクソシスト)
アリシー・ブラガ、、、アンジェリーナ (記者)
キアラン・ハインズ、、、ザビエル神父
トビー・ジョーンズ、、、マシュー神父
ルトガー・ハウアー、、、イシュトヴァン・コヴァック (マイケルの父、葬儀屋)
マルタ・ガスティーニ、、、ロザリア (憑依された少女、悪魔に殺される)
マリア・グラツィア・クチノッタ、、、アンドリア
クリス・マークエット、、、エディ
久しぶりにルトガー・ハウアーに逢った。
「ブレード・ランナー」のロイ・バティーとして永遠に映画史に残る人だ。
信仰の問題~歪み、精神の疾患~拡張、パラダイムの裂け目、意志と表象の間に生じる事故。
境界線上の鬩ぎ合い~闘いを観た思いだ。
随分と骨の折れる。
それにマイケル・コヴァックという理性的に物事を直視しようとする青年が巻き込まれてゆく。
最終的に彼がルーカス・トレヴァント神父やジャーナリストのアンジェリーナの力を借りて、エクソシストとなるまでを描いて行く。
実話を元にしたもので、実在の人物を演じているという。

その闘いは「儀式」という場に行われる。この襞のような。
「儀式」である。名前を暴く儀式だ。
悪魔の名を名乗らせることで、こちら側へ、表象界に捕らえこむとき同時に神~キリストも実体化される。
キリスト教が最大限の強度をもつ瞬間だ。
(陰陽道でも「名」に拘る。関わる対象は共に霊的超越的存在である)。
わたし~(特に信仰を持たぬ)日本人にとって、「悪魔」も「神~キリスト」もない。
「悪魔」を認めるから「神」も存在する。
バチカンがエクソシストを公認し教会に派遣するのも分かる。
このように「悪魔」がそれとして暴力的に(殺人的に)実体化するなら、それに対抗するには「神~キリスト」しかあるまい。
毒カエルが枕から出て来たり、口から五寸釘が幾つも吐き出されたり、、、それも手持ちの仕掛けの一つでもあったり、、、
ある意味、レトリックの世界の闘いでもある。
病院や医者の出る幕ではない。
特別な場に実体化された世界の闘いなのだ。

この科学信仰(万能)の世界でキリスト教がその存在を誇示しようとするならこうした局面となろうか。
傍目に観れば、あまりにあざといが。
そのローカルな場に起こる現象は、当事者にとなれば生き死にのかかった大問題(大事件)である。
だから親族がエクソシストに泣きつくのだ。
但しこうした事象はキリスト教世界でのみ起き得る。
(差し詰め日本なら悪霊払いであるか。しかし一神教下のサタンの比ではない、長閑なものだ)。
キリスト教自体、ダダやシュールレアリストもっと遡れば、ニーチェの「ルサンチマン」による理論によって排撃され、科学と哲学の背後に押しやられていると謂える。ほぼ食事の時の礼儀作法と行事、教会に通う日常生活習慣として存続しているところ。

そこに、これが起こる(わたしとしては集団的病理現象に思えるところではあるが)。
現に語られる(騙られる)事実として。
何であろうが、語られることとして、起きている。
だがそれをキリスト教内で収めている。
「悪魔祓い」という儀式を通し、身内であるエクソシストにより。
(家庭のとても根深い問題は結局家庭内で解決~解消するしかないのにも似て)。
中で(取り敢えず)解決してしまえば、結局それが何であるか~あったかは、外に対しては語り得ない。
そもそも語ることばがない。科学(医学)で語れなければ、外部(世界)に了解~承認されない。
しかしそうした還元は不可能な事態であり出来事なのだ。
語ったとしても、このフィルムが限界であろう。
アンソニー・ホプキンスやルトガー・ハウアーのような霊力をもった俳優が演じて脚色し。
こうした物語となるしか、ない。

わたしは、これについては何も言えない。
AmazonPrimeにて

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