小さな情景展 一口大コメ その2
2011
「世田谷線に乗って」

長閑な光に溢れる早朝、電車がいつもの時間にホームにやってきて、線路を渡る少女はそのまま乗り込むに違いない。
「おはよう」と声に出さずとも、何気なくお互いに小さく手を振りあう。そんなフラジャイルな関係性。
こんな些細な日常が途轍もない宝モノとして晶結するのだ。それを誰よりもよく知る画家である。
道端の車がやけに小さいことからこの路線も特異な時間系に属しているのかも。彼の絵は油断できない。
2012
「夏休み」

次の世界に一歩踏み込めず佇んでいる時間~「夏休み」といったテーマは、リキテックス紀のものだ。
この薄い向こうの世界は額縁で仕切られているかのよう。再びその境界線に戸惑いとどまる地層に出逢う。
地続きに見えるのはマグリッド的なトリックか。それはインターフェイスの悪夢。
イデア界と現実界の狭間にも思えてきたりするとちょっとドキッとする。
2012
「スカイツリーと華厳」

スカイツリーを軸に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「華厳」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブの構図を作る。更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる。
2012
「窓辺の花」

取り敢えずの彼の静物画タイプの集大成的な絵であろうか。勿論、このような絵が今後も描かれるのは想像できる。
初期の絵に一見、内容~要素構成が似ているのだが、空間の奥行きと空間自体の質量がいや増しに増す。
彼の絵には反復が目につく。テーマが同じでもその世界は徐々に自発的に破れ外へと解放されてゆく。
人が反復によって生きていることに対し、彼はとりわけ誠実である。
2013
「おめで東京タワー!」

懐古的で回顧的な意匠だ。昔からの拘りをまとめてもう一回派手に描いてみたい、という欲望~快楽に身を任せてやっちまった。
これまで登場した多くの要素たちをセットして、スイッチを入れた途端に起きた大騒ぎ。キッチュなダイナミズム。
「わたしは趣味で生きてます」と以前騙っていたが、画集の表紙にも良いのでは(笑。
彼が誰であるかが分かりやすい絵と言えよう。必然的にジオラマを要請してしまう作品でもある。
2015
「江の島シーキャンドル・ハワイアンセンター」

江の島は彼の拘りの場所のひとつ。特定のセンターであろうが、お得意の箱庭形式で決める。
好きなもの楽しいことを詰め込みたい。更に3D模型にも移行したい欲動が、この俯瞰可動的構図より伝わる。
この視座から、ジオラマもいいですね~と画策する顔が容易に浮かんでくるではないか。だが、ひとつ、、、。
絵の方が空間の歪みの描写は圧倒的に自在である。しかも空間の歪みが好き勝手な楽しさに還元された絵を他に見たことがない。ボスの絵にも空間的歪みは見られない。佐橋氏の場合、形式がほぼ完全に内容化している。その生理が意図的に無意識に作品を量産してきた。
2016
「StarDustNight」

横浜の風景のファンタジックな変性か。というよりこの照明からして、彼と環界との間に生成された薄い煌びやかな街なのだ。
インターフェイスに触れるには、こちらもアルタード・ステイツにあることが必要か。きっとそうだ。高級な酒でも一口吞んでみてはどうか。稲垣足穂の小説にある「薄い街」か細田守監督の「渋天街」な形で潜む余剰次元の街ではないかと思いたいほど薄い街なのだ。
明日、最終日に続く。
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