小さな情景展 一口大コメ
1979
「夏の午後」

この出で立ちの男の目撃される最後の絵であろう。
彼が去って佐橋氏の絵が本格的に始まる、記念碑的(前夜的)な作品。
(男は消滅したのではなく、絵からは退きどこかで出番を待っていることはお忘れなく)。
静謐に平面的にパタン化された要素の充填作品。これが基本~ベースとなる。絵の具はリキテックス。
1999
「妖精の泉」

「夏の午後」から20年が経ち、アクリルから油絵の具に変わっている。
ビビットな色と動きのある筆致で、世界が活き活きと煌めき出していた。
男の去った後の世界には、妖精の泉がぽっかり生まれているではないか。妖精も天使もこの場所とセットであろう。
しかしここを照らす光はどのようなもので何処からどのように射してくるのか。次元の異なる外部も示唆する。
2005
「紫陽花」

この一様な照明と紫陽花と同様に装飾的な日光は、この世界が自然な環界ではないことを静かに物語る。
空間も遠近法が成立しているかに見えて、人物の位置関係から大きな歪みが生じていることが見て取れるものだ。
少女と少年は交わらない系に属する。しかしお互いに見ようと思えば見えるのではないか。
「光」はあらゆるところを隈なく照らしてくれるのだから。
2006
「学校への道」

構図がまず目につく。同時に配色もハーモナイズされて意図を感じるが、充分に現実界との繋がりも覚える。
上部に重々しく水平に伸びる鉄橋と中心から逸れて垂直に伸びる舗装されていない道。それを挟んで両側へ広がる畑。
なかでも左下手前の少女のランドセルが鮮やかな黄色で畑と遠方の建造物(学校?)や、更に雲とも呼応し響きあう空間には、、、いよいよ郷愁が芽生える。
2006
「湘南電車幻想」

大きな芋虫のような列車の即物性が生々しく際立つ。
青い三輪トラックが小動物のように怯えているではないか。これは止まっているのか?
手前の彼の二人の子供さんも白いアヒルもこの暴挙に無頓着に思える(アヒルはこのままだと轢かれる勢いだが)。
このような緑に包まれた環界における生命の突然の侵害などの邪悪さも感じるメタファーのようだ。
2007
「森の遊園地」

これは外部を特に意識させない場の強度が感じられる。それで「森」なのだ。特権的な場である。
常に光はトワイライトにチューニングされており、入園者も限定され完結する。
3方向に向けて停車している?玩具のような列車は、少女たちの向いた両だけアクティブで荷台から妖精が舞い上がっている。
確かにそれは見ものだろう。だが音が感じられない。
2007
「湘南幻想青大将」

ここで初めて現実の光に出くわす。たまたま出逢った世界を切り取った繋がりと和らぎを覚える。
光景の捉え方と光と影の色調がとても自然な感触なのだ。黄緑の「青大将」はしっかり走ってきている。
緑が多様に萌えて匂い立つ。列車もトロッコもちゃんと行くべきところに着く安堵感すら漂う。
この場所の深みも猫が池を探る姿から想像できる。ここから何処へでも旅が出来てまた戻っても来れそう。
2010
「MoonLight Serenade」

水平線の位置が尋常ではない。もしや水上に聳える建造物のすぐ後ろは、滝なのか、、、この静けさの向こうは大瀑布。
しかし波が岸辺に静かに打ち寄せている。月の潮汐力が働く遠い大洋から及ぶ力も感じさせる。
どうしても海洋~大海が感じられないのは、建造物と船の大きさにも起因するか。
そうだ、これは容器を使ったジオラマなのだ。テーマは音楽なのだ。そう想うとそれとして納得がいく。
2010
「湘南幻想ワニ園午後」

「ワニ園午後」と時間帯まで指定される。より現実との繋がりが濃くなった。つまりゆったりと呼吸ができるのだ。
プレ・ラファエル派のモデルめいた女性といい、人格を持ったような鰐といい、ちょっと現実離れしていて、現実的な世界の切り取りも実現している。「湘南幻想青大将」と同様に現実の一齣として描かれている。どちらも「幻想」と題にあるが、飽くまでも彼の身近な現実を描き込むなかから溢出した豊かな幻想である。
一口コメント、明日に続く。
- 関連記事
-
- 小さな情景展 一口大コメ その3
- 小さな情景展 一口大コメ その2
- 小さな情景展 一口大コメ
- 小さな情景展 序
- S君 小さな情景展 Pre003