S君 小さな情景展 Pre002

中日である(笑。
昨日より新しい作品群となる。
だが、彼の絵は滑らかに段階的に変わってゆくというタイプのものではない。
あるところで飛躍的な展開を見せたり、急に昔の作風を思わせるものが飛び出たり、何とも言えない過程をくぐってきている。
そこが面白いところでもあるのだが、、、。
2011
「世田谷線に乗って」

これは初めて見る。
写真で貰っている為、サイズが分からないが、小さな感じがする。
品の良さそうな女子が二人、片や車上から、一人は線路を渡りながら手を振りあっている。
同じくらいの年恰好からクラスメイトか。電車登校ってちょっと憧れる。「花とアリス」もそうだった。
早朝、電車がいつもの時間にホームにやってきて、線路を渡る少女はそのまま乗り込むに違いない。
「おはよう」とお互いに声をかけているところだと思うのだが、、、。
光が長閑で優しい。
その為か、音が全くしない。
そんな一瞬。
刹那の凍結した想いは(誰にとっても)密かな宝物である。
2012
「夏休み」

これが来たか。
S君の仕事-Ⅳで取り上げているが、もう少し古い絵だと思っていた。
「家の駅近くの米軍基地の住宅をふと連想する。
少女の眼前の曲がってゆく路は何処まで続くのだろうか?
(この路には魅了される)。
上呂を持って境界に立ち止まる少女には既視感を充分持つが、手にアイテムを持っていることが、絵画世界を饒舌にする。
ドラマ性と生気が揺らぎ立つ。
だが、一歩踏み込めずに彼女は立ち尽くす。」
まるで向こうの一角が額縁で区切られているかのような、別次元の入り口みたいに思える。
当初はお花に水をやりに来たのだろうが、今やそれも忘れ呆然と立っている少女。
彼女を誘惑するようなウサギもいたりするが、一歩を踏み出すことは出来ない。
手前にある鉢物の花と同じ花が向こうにも置かれている。
一見地続きに思えるのだが、、、そう薄い建物の窓を通して向こうの木々~連続する光景も窺える。
しかし鑑賞者から見てもそこが、眼前の建物の壁に描かれた「向こうの世界」の絵である疑惑も払いのけられないのだ。
(窓もトリックかも知れない。まるで、マグリッド)。
彼女はその絵を神妙に鑑賞しているのか、、、。これぞインターフェイスの悪夢。
イデア界と現実界の狭間にも思えてきて、、、向こうが本質でこちらからは渡る権利がないとか、、(笑。
そう、どこかでこんな戸惑いを覚えた記憶がわたしにもある。かなり怖い絵である。
2012
「スカイツリーと華厳」

S君の仕事-Ⅴで取り上げたもの。
昨日の「学校への道」に似た絵である。縦長のパースペクティブを強調した絵であることを超えて。
「スカイツリーお出ましである。
飛行船も飛んでいる。(わたしも飛行船はよく絵に描いた)。
思い出深い電車特急「こだま」(151系)も走って行く。やって来たというより行くぞという方向性を感じる構図だ。
そう、スカイツリーを軸(ほぼ中心)に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「こだま」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブを持つ。
これらは異なる時間流の輻射と受け取れるものだ。
更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。
スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。
無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる(笑。」
今でもこれだけ見ると、上記と考えは変わらないが、「学校への道」を見てからだとホントに似ていることが気になる。
どちらも『黄色の郷愁』に染め上げられているからだ。
彼の絵の「色」についての側面を考えさせられる。
「こだま」は「華厳」という名がついていた。
2012
「窓辺の花」

これもS君の仕事-Ⅴで取り上げたものだ。
「初期の絵に一見、内容~要素が似ているが、空間の奥行きと空間自体の質的厚さがとても濃厚である。
そして要素の置かれ方も奥行きを作ってゆく。
立体感と色彩の息遣いも初期の絵とは別物である。
わたしは、当初どの年代でも彼は同じ世界を描いているため、時系列の重要性はないということを述べた。
半分はそうなのだが、半分は違う。
テーマは同じであっても、その世界は徐々に自発的に破れ、外に解放されてゆくのだ。
創作とは、制作の反復とは、そういうものであるのかも知れない。」
特に付け加えることもなく現在も同様の考えだが、彼のこうした静物画タイプの集大成的な絵に思える。
今後、またこのようなモチーフで描かれることは充分に考えられることだが、、、。
何と言っても、人は反復によって生きている。
彼はそれに対し実に誠実な人であるから。
2013
「おめで東京タワー!」

キッチュな昭和ジョークだ(ジョークだろうか)。
連続してS君の仕事-Ⅴで取り上げているもの。
「東京タワーである。
これはまさに懐古的な、また回顧的な意匠である。
今の時点で、昔やってきた絵をもう一回描いてみたいという気持ちか?
多くの要素を予めセットして、スイッチを入れた途端に起きた騒ぎ。
奥行きだけでなく電車やバスや飛行機や風船や傘のカップルたちが一斉に走り出し宙を舞うダイナミズムとちょっとキッチュな面白さ、、、。ひとことで言えば、趣味の世界。
どうしてもこういうのをやりたいヒトなのだ。
やはり時系列は余り関係ないな。
しかし絵は生命感があり気持ちよい。明らかに描画手法は繋がっている。」
やはりやってしまうのだ。何故か植木等を思い浮かべた(爆。
「分かっちゃいるけど、止められれない」のノリで描いているのがよく分かる。
2015
「江の島シーキャンドル・ハワイアンセンター」

またもやS君の仕事-Ⅴから連続して。
「江ノ島である。
S君にとって江ノ島は楽しいところなのだ。
楽しいから、それを詰め込みたい。
先程の乗り物ラッシュではないが、ともかく好きなものが色々入って来るのだ。
ある意味、シンプルでナイーブな絵であるが、シンプル(省略)して単純化を図る方向性とは逆である。
様々なモノを収集し増殖する絵でもある。また作者でもある。
最初期にこんなテーマの絵があったが、もう構図は遥かに複雑になり、色彩も筆致も自在性はずっと増している。
ただ、技量が増したと言うより、解放され表現が深まり広くなったのだと思う。
しかしヒトは変わらない。
やはりS君なのだ。
彼は不変の人である。」
まったくである。
彼の絵の他に、空間の歪みが好き勝手な楽しさに還元されたものは無いのでは。
形式がほぼ完全に内容化している。
その生理が半ば無意識に作品を生産(量産)してゆく。
2016
「StarDustNight」

本日最後は、S君の仕事-Ⅲで取り上げたもの。
「横浜の風景のファンタジックに変性したものか?
夜景であるが彼の場合、朝であろうが昼だろうが夜景であっても、それは単なる光力の差、色光の違いに過ぎない。
全て(モノによってはガラスケース内の)ジオラマを照らす特定の光源である。
S君のなかのイメージなのか?
寧ろインターフェイスなのだろう。
彼と環界の間に生成される薄い煌びやかな街なのだ。」
とても薄い街である。
稲垣足穂の小説にもあったが、、、。
ふとした街角に潜んでいるような、細田守監督の『バケモノの子』に現れる「渋天街」みたいに。
こちらもアルタード・ステイツにいる必要があるか。インターフェイスに触れるには。
彼の絵は時に「トワイライト・ゾーンの怪」という感じがする。
今日は一つを除き、見たことのある作品ばかりであった。
しかし新たな気持ちで観ることが出来た。
絵とはそういうものだ。
最終日☆☆☆ Pre003に続く。
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