マチルド、翼を広げ

Demain et tous les autres jours
2017年
フランス
ノエミ・ルヴォウスキー監督・脚本
フロランス・セイヴォス脚本
リュス・ロドリゲス、、、マチルド
ノエミ・ルヴォウスキー、、、ザッシンガー夫人(母)
マチュー・アマルリック、、、父(元)
アナイス・ドゥムースティエ、、、大人のマチルド

この母と幼い娘と一緒に暮らすというのは無理がありすぎ。
(自分と異なるモノとの共存は大切な課題~学習だが、それを超えてしまっている)。
何処かに放浪してしまう(うちの市でもしょっちゅうヘりで放浪老人のアナウンスをしている)、変なものを買い込む、大事なクリスマスに娘が料理をして待っていても帰ってこない。挙句の果ては急に引っ越しだと言って関係ない人のアパートに荷物をまとめて押し掛けてゆく、、、。娘の巻き込まれようと来たら、、、壮絶である。
我が家の娘にこの役をやらせたい。日頃どれほど何でもかんでもやって貰っているか少しでも認識させたいものだ(笑。
笑い事ではない。
パパは一体何をやってるのか?(どう見ても父親が親権を取るべきであろう。)
これほど娘に苦労掛けて。
しかしパパの替わりを果たす、このフクロウは何者なのか?
忽然と現れて何でも知っている。
マチルダとだけ会話が出来る。
彼女の超自我か。
そうとしか言えない。このフクロウというガジェットを介して自らの英知を顕在化~発現・投影していると謂えよう。

母は入院。娘はパパが引き受けなければ、娘の人生グチャグチャになってしまう。
娘とフクロウがしっかりしているから何とかギリギリ凌いで来たが。
母をこのまま日常生活のなかに放置しておくのは完全に間違っている。
そもそも家庭として成り立っていないではないか。
これでは娘が自らの少女期を生きれない。
友達も出来ない。
何でこんなに幼くして母の介護をしなければならないのか。
しかも専門家が背後に控えコントロールして支えている訳ではない。
野放しで娘に丸投げしているだけ。これはあり得ない。

親がおかしいと子供はその時期に必要な自分の生を生きることが出来なくなる。
そのしわ寄せが思春期~成人になって押し寄せて来て、環境に適応できなくなる。
本当に重い現実がこれから待っているであろう。
親がおかしいのにも原因がある。親が単体でおかしくなったのならまだ捉えようはあるが。
大概、そのまた親が原因となっているものだ。(その環境下~磁場において新たな遺伝的要素として定着継承されていってしまう)。
この構造のなかにありつつそれを俯瞰~意識したどこかの個体が英断を下すしかなくなる。
鎖を断ち切らなければならない。毒親の場合は絶対に必要な処置だ。
但し、この母は所謂、毒親ではない。この母親には大いに同情する。
子供を振り回し大変な目に遭わせているが、虐待をしている分けでは決してない。
病なのだ。(毒親も一種の病には他ならないが)。
入院の日にマチルドの父が娘に何か伝えておくかと聞くと「あなたのことは忘れない」と伝えてと言う。
子供のことは大変愛しているのだ。であるからマチルドもいくら酷い目に遭っても憎むことはしない。
こころの底ではその気持ちを充分に分かっているのだ。
父もその母に対して「どんなときもあの子を守るよ」と返す。
しかし何でここまで放置しておいたのか、、、それが謎である。事故だって当然起きる可能性があった。

大人になったマチルドが、雷雨の中に母と対峙し、自然にはじまった即興のダンスには打たれた。
その後のふたりで始まる詩作にも。
そうまさに詩というものはこうした関係~共存に最も有用なものとなる。
監督自らこの認知症(若年性アルツハイマーか)の母役を熱演した。凄い演技である。
これは監督の経験からきているのか、、、
だとしたら、さぞかし大変な人生を送って来た人だ。
フクロウもよい演技をしていた。
スマートなVFXであった。
演技が上手いとリアリティが得られることをこれを見て実感した。
エンドロールで流れる歌には込上げるものがあった。
AmazonPrimeにて

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