「言葉」に関して~池田晶子氏の書から

最近、そこそこ古い映画のDVDを引っ張り出しては、観ていることが多く、本をまるで読んでいない。
大判写真集は少しずつ見ているが。
書庫に入ってぼうぜんとしつつ、、、。
たまたま目にとまった池田晶子氏の本を手にとった。
「君自身に還れ」
これは池田氏と宗教家で俳人の大峯氏との対談だ。
対談って形式、面白いんですよね。
パッと見で大変美しい内容だ。
とわかるが、これは買ったは良いが、読んでいなかった。
もったいなかったのかも。
しかしそんな本は5マンとある(笑
のっけから本質的な「言葉」についてのおはなし。
”言葉は、手段ではなくそれ自体が目的だ。”
こんなふうにまとめました(笑
(まだ2ページしか読んでいないのだが。)
自動的にその言葉は詩になりますね。
素敵です。
だれもが詩で交わうなんて。
そんな世界に棲みたい。
以前から私も思っていることですが、言葉が時間とともに自然に変化していくことはよいのですが、
池田氏のいわれるとおり、使われ方により価値は下落しています。
どのように?
まず空間の隙間を埋め尽くそうとするかの如く、しゃべりまくる。
主に携帯で。喋ったほうが得だから。値段が一緒だし。
また、ことばをただの伝達手段としか使っていない。
まさにその「言葉」を伝えたい、という言葉がなくなってきた。
大峯氏も恋文を書かなくなった事を例にとり、携帯で「目的を実現するため」だけにしか言葉を使わなくなったことを指摘されています。
効果だけを狙った薄汚い下劣な言葉ですね。
結果など全く期待しない「言葉」そのもの、、、これは分からない人には全くピンと来ないでしょう。
言葉が安くなってゆく。価値がなくなってゆく。
3ページ目には、「人間とは彼が言っているところのものである」と大峯氏。
この本はこの先さらにどう進むのか?
端からこれですから。
はやくも締めです。
まったく、確かに、話しているその言葉が、その人間です。それ以上でもそれ以下でもない。
3ページしか読んでいないところで、取り敢えず以上です(笑
これからこの本をベースに、しばらくわたしが好き勝手に膨らめつつお話してゆきますので。
「引鶴の空蒼ければ湧く涙」(大嶺顯)
池田氏に送ったうたですね。
46歳とは、あまりに早い。
続きます。

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