風の又三郎

1940年
島耕二 監督
宮沢賢治 原作
永見隆二、 小池慎太郎 脚本
中田弘二、、、先生
北竜二、、、又三郎の父
風見章子、、、カスケ少年の姉
西島悌四郎、、、一郎の兄
片山明彦、、、又三郎(5年)
大泉滉、、、一郎(6年)
星野和正、、、嘉助(4年)
小泉忠、、、耕助(3年)
中島利夫、、、佐太郎(4年)
林寛、、、一郎の祖父
見明凡太郎、、、洋服の男
杉利成、、、悦治(3年)
南沢昌平、、、承吉(1年)
河合英一、、、小助(1年)
久見京子、、、かよ(佐太郎の妹)

なんせ、この物語、小学生の時、読んだはずだが、風と光るガラスのマントと、、、そう光のイメージが残っているくらい、、、。
25年以上前に詩人の入沢康夫の監修による宮沢賢治の全集(選集だったか)を買って、改めて読みだしたのだが、詩~心象スケッチに強烈に惹かれ童話はまだ本格的に読んでいないままで来てしまった、、、。
ちゃんと読み返しておくべきであった、と思う。
春と修羅の「序」に特に魅入られ何度も自分なりに考えてみた。現象学との繋がりで読んだが、華厳経との関係もある。
どう読むか、考えているうちに色々なことに気が移ったり、忙殺されたり、、、最近は子育てでもうどうにもならない、、、(苦。
宮沢賢治は、当時最先端の物理学(宇宙物理)の書籍を輸入して解読していたこともあり、その辺からのアプローチも鋭く、瞠目させられる。音楽にも明るいし、とても興味深いが、読み込んで行くにはかなり腰を据えてかからなければなるまい。
やはりこの手のことは、大学時代にやっておくべきだった。暇なら幾らでもある時期に。

さて、この映画だが、これを観て何か思い出したような気分になった。
ただ、どうもこの時代の映画の音声は(わたしが特別なのかも知れぬが)聞き取り難い。
それでも雰囲気、物語の物質性がモノクロの画面から香しく伝わって来くるのだった。
モノクロの光がとても説得力があるのだ(恐らくカラーでは、特別なフィルターが必要になるか、、、そう「ダイナー」みたいな)。
特にあのガラスのマント。
想像力を掻き立てる郷愁溢れる美しさ、、、。

映画として、宮沢賢治の詩~心象スケッチの強度にどれだけ迫れるか、となると思うが。
コントラストもかなり幻想的で、光がとても象徴的に煌めく。
又三郎(三郎)の微笑みもこの世の文脈からズレていて。
又三郎も子供たちも唄う風を呼ぶ歌がとてもプリミティブな響きで耳に妙に残り、、、
とても優れたシュールレアリスムの作品となっている。
子供ばかり出てくるが、クレジットを見ると、後の有名俳優の名が幾つも見られる。
そうした意味でも、興味深いものであろう。
もう80年以上も前の映画であるが、「東京物語」や「雨月物語」とおなじくらい独自の輝きをもっており、古いとか時代性などを超脱した域にある。
どうも音声だけ気になったが、また何度か見直したい作品であった。

9月1日に転校してきた三郎に対して、「今日は、二百十日だからお前は風の又三郎だ!」なんていう綽名を付けるなんて、、、
昔の小学生は、悪ガキどももインテリである。
わたしは、馬が草原に逃げて行ってしまい、風雨が次第に強まる中、それを追った少年たちのなかで、ひとり嘉助が倒れてしまう。
その時に、又三郎が光るガラスのマントを羽織り、微笑みを浮かべて宙を飛んでゆくところに引き込まれる。
そのような宝の場所~時空というものが自分にもあった気がするのだ。
いつだったか、、、どんなことだったか、まだ想い出せない。
今日はせっせと寝て、夢の中で想い出したい、、、。
折角の機会だ。
AmazonPrimeにて、、、