武蔵野夫人

1951年
溝口健二 監督
大岡昇平 原作
依田義賢 脚本
早坂文雄 音楽
田中絹代 、、、秋山道子
轟夕起子 、、、大野富子(従兄の妻)
森雅之 、、、秋山忠雄(道子の夫、大学教授)
山村聡 、、、大野英治(道子の従兄、富子の夫)
片山明彦 、、、宮地勉(道子の従弟)
進藤英太郎 、、、宮地信三郎(道子の父)
中村美那子 、、、大野雪子(富子の娘)
平井岐代子 、、、宮地民子(道子の母)
塩沢登代路(塩沢とき) 、、、成田はなえ
大谷伶子 、、、笹本孝子
千石規子 、、、大野家の女中
かつての武蔵野と言われた地の風景が垣間見れる。「はけ」という場所も初めて知る。
現代劇ではないか、、、溝口映画では初めて。
戦禍を逃れ、、、
あたふたと武蔵野の高台にある妻の実家に疎開して来た夫婦のシーンから始まる。
ロングショットは相変わらず。庭まで臨む空間を生かした室内での距離を持った対話など、溝口の構図は随所に見られる。
夫の方は、迎えた妻の両親受けはよくなさそう。「あいつは卑しい男だ。」(父)
(3年後に出逢う潔癖な勉からも酷く嫌われる)。

相次いで道子の両親は亡くなり、遺産は道子が継ぐ。
彼女は宮地の家を守って生きる決心をする。
そこへ勉が復員して来る。
ここから男女の愛憎劇が始まる。
戦後の価値観と謂うより、体制の変わったところで、皆不器用に自由の行使をするも、はき違えによる混乱も多い。
勉は道子に以前から思いを寄せておりそれを積極的に彼女に告げる。
半面、女にだらしのない享楽的な忠雄には嫌悪感を隠さない。
戦争捕虜となっていた為のPTSDなどは微塵もない健康体である。
和楽ではなく、クラシックがレコードで鳴り渡る。シューマンのトロイメライ。
登場人物たちは皆、西洋文化をすんなりと受け入れている。
勉は特にクラシック音楽が好きだ。
この音楽に合わせた雰囲気は家屋、室内、店などに生きているが、、、。
ともかくリベラルな学者ぶった忠雄のだらしなさ自己中振りと、勉の訴える愛は自由だに道子は当惑し苦しめられることになる。

この武蔵野~「はけ」という澄んだ水の湧き出てくる地を何よりも大切に思う道子とその地に同様に憧れる勉であり、その地を仲立ちにした良い関係を保ってきた二人であったのだが、、、。
それも愛憎劇の中で解体して行く。
しかし道子は言い寄ってくる勉に対し、二人の間の純潔を保つ「誓い」を彼にたてさせる。
それは戦中でも戦後の価値観からでもない。武蔵野~東京の新しい景色にそぐふ価値観だと諭す。
彼女は信念を貫く。
(実はわたしは、この思想の内実を咀嚼しきれていない)。

しかし5人、、、道子、富子、忠雄、英治そして勉の絡む人間関係は坂を転げ落ちるように泥沼化する。
堂々とスタンダール学者の忠雄は、富子と浮気をしている。自分の信条に従い。
そして結局、離婚を忠雄が切り出し家の権利書を盗み出して富子と共に家を出てしまう。
家を売り飛ばそうとする(抵当に入れようとする)が道子の同意書が無くて出来ない。
富子にせっつかれ業を煮やし夜中に道子のもとに帰るが、服毒自殺を図っていた道子を発見することに。
財産分与を含む遺言はその前に勉のもとに送られていた。
武蔵野の光景とは裏腹に何ともドロドロした人間模様であるが、「はけ」という地がどれほど道子にとって掛け替えのない場所であるか、わたしは原作も未読でありいまひとつはっきり掴めなかった。
単に親からの代の家を守るということを超えた「場所」としてあるのなら、道子があの家で死を選ぶことは納得できる。

しかしどうもしっくりこない。感動もまるでない。
「野火」は、映画でもとても見応えはあったが、、、(勿論、原作も読んだ)。
何故だろうと考えるに、配役と演出に問題があるように思える。幾分か紋切り型の感も拭えない。
全体に、どうにも薄いのだ。
脚本の問題もあろうが、、、。兎も角、勉の役者はいただけない。幼い駄々っ子みたいな感じで、道子と恋愛関係になる様な相手に思えない。声の甲高さも何とかならなかったのか、、、とても気になった。
そして肝心の道子にもスッキリしない。
脇役の中に埋もれてしまう印象もあった。
田中絹代主演の悲劇なのだが、他の作品のような重みが感じられない。
