祇園の姉妹

Sisters of the Gion
1936年
溝口健二 監督
依田義賢 脚本
山田五十鈴、、、おもちゃ(芸妓、妹)
梅村蓉子、、、梅吉(芸妓、姉)
志賀迺家辨慶、、、古沢新兵衛(木綿問屋)
久野和子、、、おえみ(古沢の妻)
林家染之助、、、定吉(古沢の番頭)
三枡源女、、、おはん(定吉の妻)
進藤英太郎、、、工藤三五郎(呉服屋)
いわま櫻子、、、おまさ(工藤の妻)
深見泰三、、、木村保(工藤の番頭)
一部のフィルムが失われてオリジナルが95分のものであるのに69分で終わっている。
にも拘らず、凄まじい傑作だ。
何よりこの芸妓はんたちを取り巻く、空間描写の饒舌さに酔う。
のっけから破綻した木綿問屋の家屋を横に横にとその骨組みを追って行くところからいやおうなしに惹き付けられる。
構図と(色調も匂わせる)明暗に(長廻しの)カメラワーク全てが計算しつくされたものであろうことが感じられるのだ。
小津映画もそうだが、形式~美学の重要性がここでも納得できる。
そして彼女らの生のリズムそのものの早口の京ことばにいつしかわたしも身体的に同調して行く。
(最初は何喋っているのか内容が掴み難いのだが)。
何とも言えない生理である(京の暗い裏通りの生理等々)。
砕けた格好のおもちゃの日常の光景からして匂い立ってくるような、、、
この演出あって、芸妓はんの世界が濃密に香ってくるのだ。
(ゴダールが溝口を尊敬するのも分かる)。

ここに描かれる二つのタイプの芸妓の姿は抑圧、搾取、差別されている人の典型的で普遍的な姿とも言えよう。
片やその宿命に従いその掟のなかで正しく生きようとする者とそのシステム自体を批判的に捉えそれを逆手にとって搾取側を支配・利用しようと企てる者。
それが姉の梅吉と妹のおもちゃにそれぞれ当て嵌まる。
姉は幼くしてこの世界に入った為、その外を知らない。
妹のように女学校を出てからこの世界に入った者のように、この世界を相対化する視座がない。
物事に対して懐疑的でない分、同情心があり心根が優しく感じられもする。
妹にとっては、姉の大切にする世間体や義理・人情は盲目的な囚われ以外の何ものでもない。
姉は男女観(男尊女卑)においても封建的な制度の内に嵌り込んでいて疑問がないが、妹は男の差別、所有欲、横暴に対し激しい怒りを抱く近代的自我をもっている。
姉のいう女の幸せではなく女の権利を主張する。

双方ともにそれぞれの人格が説得力を持って活き活きと描かれている。
但し、妹はどうせ闘うならもっと自分を守る策略を立てる必要があったはず。
(結構口八丁で面白可笑しく男を操っていたのだが、思わず素が出てしまったか)。
幾ら相手が馬鹿男でも、あれ程ストレートにケチョンケチョンに貶してしまえば(言ってることは正論だが)、ただ単に恨みを持たれる。
或る意味、これは姉譲りの率直で素直な性格とも謂えるか。
そして飛んだところで復讐される。
大怪我をする(ここでは文字通りそうした目に遭う)。
では姉は安寧な生活を保障されるのかと言えば、やはり男の勝手で良いように使われ、捨てられてしまった。
(あれだけ尽くしたのに、というところか)。

結局、どちらも行く先が決まっているのだ。
(妹がもしもっと上手く奸計を巡らし相手を操ることに成功していても、どれだけそれが続くものか)。
その逃れられない宿命を、最後に妹が病院のベッドで大いに嘆く。
大変共感する。
わたしも一緒に悔しくなった。
本当に相思相愛のお金持ちのだんなはんに巡り会えれば、どちらのタイプの芸妓はんも幸せになれるものだろうか、、、。
内属するシステムに関係なく、愛があれば自由と解放が得られるだろうか。
ふと、そんなことも考えてしまった、、、。
「愛」も勿論、西洋(文学)から入って来た幻想(概念)のひとつであるが。
(そこにも権力と打算は忍び込むにせよ)。
取り敢えず、愛とか言ってはみたが、、、
因習のうちに従順に生きるでもなく、掟に立ち向かい好戦的に生きるでもない、自分ならではの創造的な生を生み出すしかないと思う、、、。
どのような環境に生きているにせよ。
勿論、これは現代社会においても課題に他ならない。
ともかくこの映像には、ゾクゾクした。
茶をブブというような京ことばも癖になる。
麻薬的な映画。

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