平面性の主張

アイズピリの絵を箱に入れようとして、久々に見てみました。
しまうことにします。
何か娘の絵を見比べるときと同じような意識で観てしまいます。
確かにわざわざ画廊に行って購入している作品です。
充分に修練を経た職人的なデッサン力はそこにはっきり確認出来ます。しかし、、、
偉大な芸術作品とは明らかに異なる何かです。恐らくその類似多産性からもそう想わせる。
とは言え、商業デザインや模様とはまた異質のもの。
間違いなく”絵”です。
単なるポピュラー絵描きの絵と言ってしまえばそれまでですが、自分が何枚も買ってしまった言い訳をしておきたい。自己弁護を。しまうにあたり、これが無駄使いだったとは思いたくないですし。そんな気もしませんし。
---平面性の主張---
「すべての芸術は表面であると同時に象徴である。」(オスカー・ワイルド)
遠近法によって描かれた絵はそれがどのような出来であるかにかかわりなく、その絵の背後に控える時空間を我々は意識せざる負えない。線遠近法・空気遠近法と言う形式は、ルネサンス期に確立して以来、「本物らしさ」と「物語」を絵画に与えるための鋳型の役目を果たしてきた。時空間というものを二次元性の内により正確に整序して表現しようとすることは必然的に、その絵が指し示す対象であったものことを、その絵や作者をも含め、思い巡らすことを我々に不可避的に強いることになる。言わばその絵は、結果であり、なにごとかのモニュメントであり、過ぎ去って失われているものの再現であり、指示であり、よって二義的なものであることから逃れることの出来ないものである。どれだけ多くの視線に晒されてもなお、その絵はその絵の示す、当のものことによってのみ、その意味が決定され、価値が計られるだけの、物でない「もの」と言えよう。それ自体で成立するものではなく、常に従属する現実または歴史によって計られるもの。まさにプラトンの述べた、絵画はその再現性により、イデアの影でしかない物を更に写すだけの最も精神にとって堕落したものであり、よって絵や画家というものは排除されねばならない、という理論が想い起される。
しかし、絵をより厳密に描こうとした画家達が、発明されたばかりのチューブ絵の具を持って屋外に出かけ、光と影の中に色を発見していく過程で、色のマッスによってつくられる表面のたわむれの描写に強く傾倒してゆき、やがて遠近法や奥行きの解体がはじまる。浮世絵の発見もそれに拍車をかけたはずだが、印象派の最大の功績とはこの平面性の露出にあったと言えよう。合わせてこの時期、応用芸術であり、版画芸術であるアールヌーボーの線によるグラフィカルな絵画が日常生活の中に浸透していく。自分の家の壁などを、自由に装飾出来る「線」というものの独自性と創造性の発見である。「自然の中には線も、色もない。線を創るものは人間である。」とボードレールの言うように、印象派による色の解放と、平面性の獲得、アールヌーボーにおける線の自覚が、この後に現れる構成主義などと相まって、絵画そのものを現実の対象から形式的にも解放していくこととなる。そして、その解放の場所こそ、なにより「平面」に他ならない。「平面」とは絵画の可能となる唯一の場所であり、その二次元性を絵画自身が何にも従属しない生きた線と色とを獲得して強く主張することによって、創めて絵画は第一次的な創造物となりうる。ある対象にまとわりつく時空の影に従属せずに対象を能動的に、自律的に、一回的に生成する、二次元性自体の主張である。
アイズピリの絵は、彼が好んで作るリトグラフの特性にもあっているが、必要最低限と見られる線と色で構成されている。線は無造作に軽妙に一気呵成に引かれ、クレーのような知的な繊細さはない。まるで幼児が引いたような線である。また色に厚み(マッス)はなく同じ面に全く均質に広がっている。その絵に立体を意図した表現は見られない。セザンヌの主張した意味でのボリュームは感じさせる。つまりモノがそこにある、と言う意味での。彼の絵には奥行きが無い。絵そのものが、即座にそのものとして見える。徐々に明かされる何者かを隠していない。あまりに明証的な「絵」以外の何者でもない。幼児が初めて描いたようなピンクのバラは黒い輪郭線と少しぶれあいながら、創めてバラという生きた意味を鮮明にわれわれに語りかける。初々しく。バラという意味。ピンクの放つ意味。額に入れられた絵の背景には何もなく、その絵という平面上にまさに今、新たにピンクのバラが創めての意味を生成しつつ生きている。ここで「輪郭線」は重要な要素であり、更に平面性を強化する働きを持つ。物の背後への回り込み、物同士の関係で生じる空間、物のわずかな厚み、を完全に断ち切る。(昔のアイズピリの絵にはこのような輪郭線がなかった。)平面性は表面と言う場所を際立たせる。表面に対する内面を、構造を、背後を、すべて表面にトポロジックに析出させる。そして様々な幻想を滑り落とす。やがて我々がよって立つ地平は表面でしかないことを想いださせる。
表面とは優れて象徴的である。表面それ自体に限りない奥行きがある。もしアイズピリの絵に多少なりとも奥行き感と立体感を付け加えたとしたらどうなるか。言うまでもなくひどく貧しいぺらぺらな絵になってしまうだろう。すべてのものは影となって精気を失ってしまう。この絵の平面性こそがプリミティブで、無意識的で、時間と空間を締め出した永遠の世界を生んでいるのだ。まさにイデア界の「ピンクのバラ」。まるで遠い昔の夢に出てきた花を想いださせる鮮明な色。バラは見慣れたバラではなく、すでに知っており、想い起こされたバラである。アイズピリは目の前のピンクのバラの影を写したのではなく、そのイデアをこそ描いていた。無垢なイマジネイションによってそれを把捉し。「人間に残された最後の資源はイマジネイションだ」とJGバラードの述べるように、絵画においてイマジネイションの発動する場所こそ、この平面性の無意識なる主張のうちにあった。絵画はここで創めて自立する。
アイズピリ。作品は作者から離れて独り歩きする。それは確かだ。しかし我々は「モナリザ」のような大傑作のようにこれらの夥しい小作品群を見ることはない。私は彼の作品の名で正確に覚えているものはない。自分で買った絵の名も知らない。7枚とも。もっとも題名自体、見れば分かる即物的な名であったから、知る必要もない、といったものであったが。花にたかった,大きすぎる蟷螂、テントウムシ、その他の昆虫。そして、鳥。それから少年とアルルカンたち。港の光景。モデルを描く画家のいる室内。同じような構図のブーケの群れ。これらの絵は”アイズピリ”と総称してよいだろう。どこでもそうだ。アイズピリといっておけば、知っている人は誰もがそれらを思い浮かべる。アイズピリという異様なほど目の生き生きした幼い表情の小さな老人とともに。度肝を抜く独創性。技巧。強烈さ。荘厳さ。華麗さ。奇怪さ。としてではなく、何処にでもありそうでいて希有なものとして、私は「アイズピリ」を見ている。
アイズピリ。かれの夥しい絵画群は深刻な考察の対象となることをすり抜ける。この絵はそんな視線を好まない。押し殺した呼吸をゆっくりとした長く深いものに変える。そして微笑みを誘う。この絵は、悪戯っぽい遊びに満ちており、無邪気で、ほのぼのとした波動に包まれている。考えることなく、味わうもの、際どいほどに通俗的で、無防備、箱庭的で趣味的、そして、小さな室内楽曲の心地よさ。この快感は、幼年期の全能感を静かに幽かに想い起こさせる。年を負うごとにそぎ落とされていった結果のこった、単純。無垢。絵いわゆる自分にまつわる肥大した幻想を振り払った先に向こうからおとづれて来た、イデア。何処にでもありそうでいて希有なもの。
アイズピリの絵というのは、どうしても数枚買ってしまいますね。リトグラフとはもともとそういうものですが、この画家のものは特に一枚では何か物足りない気がする。カトランの場合、1枚傑作を購入すればそれで充分ですが。なぜなんでしょう。同じような構図のものを何枚も見比べてみたい。比較ではなく、ただそれぞれをぼんやり楽しみたい。片やカトランの場合は、ギリギリまで単純化された色面構成が構成主義的な完成度の尺度(度合)で観ることをこちらに要請するところがあり、この絵よりこちらの方がよい、と言ってどれかを選んでしまう。アイズピリはほとんど同時期の絵であれば、そもそも作品に優劣をつける気になどならないし、額縁の気に入ったのを買ってしまうような世界です。
カトランのブーケは、アイズピリより遥かに自覚的に構成主義的であるが、まだ意味ー内容をもったブーケと名づけ得るものである。しかし、さらに自覚的・意識的にこれを一歩踏み出してしまうと、もう名づけ得る名前ー対象を失ってしまう。だが、そこにいくまでには、恐らく越え難い断絶・飛躍がある。アイズピリ・カトランともにそのような資質はもっていない。
構成主義とは明らかに絵画における自己批判である。
平面を極めたもう一つの流れ。観念的に極端な揺れを見せるロシアでとくに盛んであった構成主義をもう一度確認してみたい。構成主義の絵画の題名が簡潔に示す、その虚無性。対象の喪失。または純粋な記号性。存在と交感する場所を持たないものを我々は享受できるだろうか。他者を容れる宇宙の存在しない世界という背理。いやそんな問いは意味を持たない。彼らは、それを完全に計算に入れたところから始めている。しかしそのことは、結局自意識の呪縛に窒息することにならないか。それはまた作者そのものが前にしゃしゃり出てくる、だまし絵のようなものになりはしないか。後の退屈なコンセプツァルアートのように。絶対抽象詩の世界。そのもの自体が新たな創造物でしかない。それを語る言葉もない。根のないもの。構成主義の絵画は必然的にのっぺらぼうである。何かを語ってはならない。あるいは見られることの拒絶。あるいは丸裸な絵。というものがあるのなら。しかし絵それ自体と言う存在は不安以外の何をもたらしてくれるだろうか。あるいはそれこそが我々の意識に風穴を開けるものなのだろうか。覚醒に向けて?だが意識というものは一筋縄では行かない。すぐに慣れてしまう、というより麻痺してしまうだろう。驚き、不安、苦痛は長続きしない。ひらめきはすぐに忘れ去られてしまう。
わたしが絵に求めるものとは一体何か?
絵画への問いは自分の精神を逆照射する契機となる。

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