湖のほとりで ~
イタリア北部で撮られたノルウェー原作の映画。

原作はガラスの鍵賞受賞。北欧5カ国(アイスランド・スウェーデン・デンマーク・フィンランド・ノルウェー)の最も優れた推理小説に贈られる文学賞である。賞の名は、アメリカのミステリ作家、ダシール・ハメットの小説『ガラスの鍵』に因んで付けられたという。
その原作小説を映画化したものが本作である。
イタリアのアカデミー賞と呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で史上最多となる10部門を独占した。
大変評価の高い作品である。
しかし上記の件は見終わってから知った。
人間存在についての深い洞察と哀れみを呼び覚ます映画である。
小さな美しい村で起こった殺人事件を温厚で思慮深い刑事の眼を通し静かに謎を解いてゆく物語。
まずは湖のほとりに美しい女性の全裸死体が発見されるところから始まる。
聞き取りをすると大変評判のよい明るくしっかりした娘である。
こんな娘をいったい誰が、、、物静かな狭い村を聞いて回るうちに人の抱える問題が色濃く淡々と浮き彫りにされてゆく。
しかし謎を解くといっても特異なことなど何もない、ごく普通の人間が集う普通の空間で起きたことであり、
その意味で普遍性の高い何処にでも起こりうる悲しい出来事にほかならない。
そして一度犯罪が起きると、普通の人間の中の一種の性向や気質、こだわりがレンズで拡大されるように晒され、誰もが疑心暗鬼にもなる。
人間の生活において、常に障害としてコミュニケーションの問題は立ちはだかる。
特に親子関係はどのような年齢になっても当事者でなければその苦痛は理解しがたい。
さらにその解決など当事者においてはさらに困難になる。
超越的な他者の手を借りて何とか危機状態を回避することは可能なこともある。
しかし解決ではない。解決ではなく解消が図られることはある。
もともと解決という概念などはそこには相容れない。
親子関係を基盤に置いた存在学は根源的であり普遍的テーマとなる。
この映画作品は、一貫して親が子と、子が親とどう関わってゆくかが基調に流れている。
勿論、答えはない。
親子という他者関係は最も困難な関係性をいつも孕む。
この映画では、血縁の無い他者との困難な関係も同様に描かれている。
ここで特に悲劇であるのは、殺人事件を引き起こすきっかけとなった5歳の子供と親との関係である。
大変共感できる心理であるため、そこでのほんの僅かな親の強さがあればと悔やまれることだ。
だが事件は大概そういう場に起きるものである。
わたしの家庭に起きても不思議ではないことである。
そこに善意で介入した娘が湖のほとりで帰らぬ人となる。
ここでは、誰ひとりとして異常な人間や悪意の人間はいない。
普通の人間の起こすことであるため事件と呼ぶ。
特にその娘は不幸ではあったが、恵まれた優れた人格をもった存在であった。
異常な人間の理解しがたい犯行ならそれは天災のようなものだ。
怒り以外の感情はそこには生じない。
だがこの映画の犯罪には、共感と哀れみ、悲しさしか感じ得ない。
人間の本源的な弱さからすべて生まれるものであり、その事実をよく実感として認識している老刑事の容疑者たちとの語り合いもとても深い。
そして見事に犯人を暴くが、誰もがあまりに悲劇的な存在であることが照らし出される。
既視感のような映像に幾つも出会う。
老刑事も深刻な家庭の問題を抱えている。
妻と娘と自分。
修復不可能な事態にあって当惑して佇んでいても、空虚で無邪気な微笑みが、深い悲しみと当惑を嘘のように引き取ってくれる光景で終わる。何かカフカの「変身」の最後の光景のような。
「かあさん笑ったよ」父が娘に。
それにしても
あんな綺麗な湖のほとりでひとり死ねるのも悪くない。


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原作はガラスの鍵賞受賞。北欧5カ国(アイスランド・スウェーデン・デンマーク・フィンランド・ノルウェー)の最も優れた推理小説に贈られる文学賞である。賞の名は、アメリカのミステリ作家、ダシール・ハメットの小説『ガラスの鍵』に因んで付けられたという。
その原作小説を映画化したものが本作である。
イタリアのアカデミー賞と呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で史上最多となる10部門を独占した。
大変評価の高い作品である。
しかし上記の件は見終わってから知った。
人間存在についての深い洞察と哀れみを呼び覚ます映画である。
小さな美しい村で起こった殺人事件を温厚で思慮深い刑事の眼を通し静かに謎を解いてゆく物語。
まずは湖のほとりに美しい女性の全裸死体が発見されるところから始まる。
聞き取りをすると大変評判のよい明るくしっかりした娘である。
こんな娘をいったい誰が、、、物静かな狭い村を聞いて回るうちに人の抱える問題が色濃く淡々と浮き彫りにされてゆく。
しかし謎を解くといっても特異なことなど何もない、ごく普通の人間が集う普通の空間で起きたことであり、
その意味で普遍性の高い何処にでも起こりうる悲しい出来事にほかならない。
そして一度犯罪が起きると、普通の人間の中の一種の性向や気質、こだわりがレンズで拡大されるように晒され、誰もが疑心暗鬼にもなる。
人間の生活において、常に障害としてコミュニケーションの問題は立ちはだかる。
特に親子関係はどのような年齢になっても当事者でなければその苦痛は理解しがたい。
さらにその解決など当事者においてはさらに困難になる。
超越的な他者の手を借りて何とか危機状態を回避することは可能なこともある。
しかし解決ではない。解決ではなく解消が図られることはある。
もともと解決という概念などはそこには相容れない。
親子関係を基盤に置いた存在学は根源的であり普遍的テーマとなる。
この映画作品は、一貫して親が子と、子が親とどう関わってゆくかが基調に流れている。
勿論、答えはない。
親子という他者関係は最も困難な関係性をいつも孕む。
この映画では、血縁の無い他者との困難な関係も同様に描かれている。
ここで特に悲劇であるのは、殺人事件を引き起こすきっかけとなった5歳の子供と親との関係である。
大変共感できる心理であるため、そこでのほんの僅かな親の強さがあればと悔やまれることだ。
だが事件は大概そういう場に起きるものである。
わたしの家庭に起きても不思議ではないことである。
そこに善意で介入した娘が湖のほとりで帰らぬ人となる。
ここでは、誰ひとりとして異常な人間や悪意の人間はいない。
普通の人間の起こすことであるため事件と呼ぶ。
特にその娘は不幸ではあったが、恵まれた優れた人格をもった存在であった。
異常な人間の理解しがたい犯行ならそれは天災のようなものだ。
怒り以外の感情はそこには生じない。
だがこの映画の犯罪には、共感と哀れみ、悲しさしか感じ得ない。
人間の本源的な弱さからすべて生まれるものであり、その事実をよく実感として認識している老刑事の容疑者たちとの語り合いもとても深い。
そして見事に犯人を暴くが、誰もがあまりに悲劇的な存在であることが照らし出される。
既視感のような映像に幾つも出会う。
老刑事も深刻な家庭の問題を抱えている。
妻と娘と自分。
修復不可能な事態にあって当惑して佇んでいても、空虚で無邪気な微笑みが、深い悲しみと当惑を嘘のように引き取ってくれる光景で終わる。何かカフカの「変身」の最後の光景のような。
「かあさん笑ったよ」父が娘に。
それにしても
あんな綺麗な湖のほとりでひとり死ねるのも悪くない。


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