キャット・ピープル

Cat People
1942年
アメリカ
ジャック・ターナー監督
ドゥウィット・ボディーン脚本
シモーヌ・シモン、、、イレーナ(ヒロイン)
ケント・スミス、、、オリヴァー(技師、夫)
ジェーン・ランドルフ、、、アリス(夫の同僚)
トム・コンウェイ、、、ジャッド(精神科医)
ナスターシャ・キンスキー主演のリメイク版(1982)はずいぶん昔に観て、もう何も覚えていない(笑。
もう一度観てみたい。
今回は、そのオリジナル版である。
強い明暗のコントラストを生かした不安な気配作りが全編を充たす。
壁や床に落ちる影がときに大きな意味を浮かべる。
プールの場面では手すりの影が主役になり、、、。
それに怯えたアリスがたまらずプールに飛び込むのだ。
不穏な水面の揺らぎ。
壁にもその揺らぎが。
アリスは叫び声をあげ助けを求める。
そこに何食わぬ顔でやって来るイレーナにアリスは怯えた。
イレーナは直ぐに立ち去る。
だが何もなかったかのようにこの場をやり過ごすことは、出来ない。
アリスのバスローブがズタズタにされていたのだ。
こんな具合で、そのもの、その場面を、あからさま~即物的には描かずに不安を充満させてゆく手法をとる。
戦時中であり、様々な不安に満ちた時世であろう。
しかし基調となるのは、イレーナの宿命に対する深い葛藤と不安と恐怖である。
確かに大人になることを拒む姿勢、潔癖症、男性恐怖などの繊細で内向的な若い女性特有の心性にも重なる面はあるが。
やはり猫人間の末裔として決して人間とは交われない、深い接触で相手を殺してしまう宿命を背負った苦悩と絶望なのだ。
結局それが実現されるところに追い込まれたイレーナは自らの命と引き換えに彼らを救う。
この悲惨な事態を引き起こしたのは、イレーナの魂の訴えに誰も耳を貸さなかったことによる。

彼女は何度も「わたしは嘘をついていない。真実しか話していない」と繰り返していたのだが、周りの者は自分の正論を一方的に押し付け彼女の話を彼女の生まれた村の迷信だの一言で片づけてしまう。この奢り、傲慢、不遜な態度。これが国同士であれば当然戦争にも発展しよう。
イレーナは敢えて、アリスの紹介による精神科医にも掛かるが、彼も端から彼女の話を妄想として一蹴し何らかの幼少期のトラウマによるものとみて、受け止めようとはしない。
彼女に半ば強引に迫り結婚を果たした夫のオリヴァーも彼女の苦しみと本心を受け止める姿勢は皆無であり、職場の同僚アリスにこころを向けてゆく。ジャッドを加えての密談で、療養所に入所させると離婚が出来ないからこのままの形で離婚を成立させアリスとの結婚を企てる。
誰もが彼女を得体の知れぬものとして厄介者扱いし始める。
自分の思惑~思考の枠~に嵌らないことで排除しようとするのだ。
そんな矢先、イレーナに強引に迫るジャッドに対しついに変身をして彼を殺してしまう。
彼女もジャッドのステッキの仕込みナイフで深手を負い、動物園まで辿り着き、豹を檻から放って、息絶える。
彼女を追ってきたオリヴァーとアリスは彼女の豹の死体として横たわっている惨状を見て、「やっぱり言っていた通りだったのね」とすごすごとそこを立ち去ってゆく。
こうした輩~光景にはわたしも充分、既視感をもっている。
記憶の新しいものもあり、怒りが改めて込み上げる。
本当に他者に向き合える人間は、少ない。
(わたしの親も、全く子供に向き合えない人間であった)。

つい先ごろ、長女の帰りが遅く、大変心配し(何しろその日は朝も渋り学校まで送り届けた日でもあった)自転車で近隣を回ったあげく見つからず、学校に連絡し、先生方に心当たりの家庭に連絡して確認をとってもらった。
お陰で、ある女子児童の御宅に帰りにそのまま一緒に行き、今から帰るところということだった。
近くの十字路で暫く待つと娘が現れた。ただし自転車で、、、。
さすがに自転車に乗っていたのは意外であったが、最近は何に対しても驚きはない。
手を振り合図し合ったが、信号が変わっても一向に娘がこちらに渡ってこない。
自転車の持ち主をそこで待っているのかと思っていると、その子と思しき娘が到着したのに、まだその場に留まる。
眩暈がして、直ぐにそこに自転車で行き、どうしたのかと聞くと、遅くなったから自転車で家まで行けって言われたと。
それまでは、彼女のマラソン?練習のお付き合いで自転車の先導を受け持っていたとか?何のことか定かではないが。
ともかく持ち主がそこにいるのだし、返してパパと一緒に歩いて帰ろうということにした(何でこんなに硬直した考えと身振りなのか?彼女も半ばこころここにあらずみたいな表情なのだ。彼女にとって学校とはそもそも何なのか。少なくとも思考や意識の活き活きと解放されるような場とは思えない)。
こちらも疲労で呆然として、お互いに顔を見合っていた矢先に、何とも素っ頓狂な輩がわたしと娘の間に、「何をもめてんだ、おい」とかほざいて暴力的に割り込んで来るではないか!?これには何にも驚かなくなったわたしだが、殺意は充分込み上げてきた。
自転車を思い切り前に突き出し、その糞バカを取り敢えず脇にどけた。
それからも何やらわめいていたみたいだが、バカの戯言が意味的に入ってこなかった。
わたしがこの子はわたしの娘だ。と冷静に言うと、わざわざ彼女にそれを確認し、取り敢えず黙った。
「この無礼な。いきなり何のつもりだ」とかわたしが言うと、何とその間抜けは、「最近、こういう小さい子が被害に遭ったりしているでしょ、、、」とか来た。まず自己正当化か。激しい憤りを覚えて「謝れ!」三回程、激しく怒鳴った。すると何度かすいませんとか言って、すごすご去って行く。話自体する気などない。早く排除したいだけ。近くでその様子を見ていた二人にも「見てんじゃない!」とついでに怒鳴ると、直ぐにふたりは顔の向きを変えた。
軽佻浮薄なお調子者だとは一目で分かった。
まず自己実現ではないが、何かでひとかどのことをして認められたい(または自己満足を得たい)とでも思っているのだろう。
薄っぺらな正義感を拠り所に、その実現の図れる対象をそれとなく探しているのだ。
(これまたあちこちに跋扈する他罰主義の人間もこの同胞である)。
これらの輩に共通なのは、人を舐めている。不遜な態度なのだ。
これは、他者に対する感覚の疎さ。他者に対する想像力の欠如によるところが大きい。
(岩成達也氏の述べる「空間感覚の欠如」なのだろう。そういえば、コロナの真っ最中なのにわれわれの間に入って来るという狂態を演じてくるのだ)。
そして自分の無意識を他者に投影することに対する無自覚。
他者を見ているつもりで自分の内面を見て、それに批判を加えている、その滑稽さ加減ときたら、、、。
例のバカも、きっと奴のほざくようなことを常に想い描いているに違いない。お前の願望だろう、ほざいている内容は!
これは、直接言ってやっても良いが。もしそれに腹でもたてようものなら、それをわたしに対してやったのだ、ということは最低限、自覚させなければ。いやどうでもよいが。知ったことではないが、ろくな死に方はしないだろう。
この投影行為、された方は災難だ。迷惑な事故だ。
例え何か不信に思えるシチュエーションに遭遇したにせよ、他者という時間系~別の固有時に働きかけるという行為は、暗闇でのジャンプに等しい。極めて危うい行為であり、交通事故をいくらでも引き起こす可能性がある。
頭の悪い品性下劣なバカ程、これを軽々しくやる。
大方、間違う。ならば、、、
自己正当化する前に、陳謝であろう。深く頭を下げて謝れ!それも想定なく、堂々と小憎らしいバカ面さげてこちらの身体性の広がりの内を侵害する。
実は大分以前にもこれに似たことがあり、そのド低能は結局、謝りもしない。
近くのマンションに暮らしているようだが、知り合いの弁護士にも連絡を取り、こちらの受けた被害(誹謗中傷)次第であるが、名誉棄損、いや人権侵害の面で、考慮中である。ただでは済まない。
書き出したら止まりそうもないので、ここで止める。
何だか体調はとても良いのだ。幾らでも書ける気はする(爆。