キューブ CUBE

Cube
1997年
カナダ
ビンチェンゾ・ナタリ監督・脚本
アンドレ・ビジェリク 、グレーム・マンソン脚本
ヤスナ・ステファノビック美術
モーリス・ディーン・ウィント、、、クエンティン(黒人警察官)
ニッキー・グァダーニ、、、ハロウェイ(女性精神科医師)
ニコール・デ・ボアー、、、レブン(数学科の学生)
ウェイン・ロブソン、、、レン(刑務所の脱獄プロ)
デヴィッド・ヒューレット、、、ワース(設計技師)
アンドリュー・ミラー、、、カザン(自閉症、数に強い)
ジュリアン・リッチングス、、、オルダーソン(最初に骰子のように独楽切れとなる)
以上全員、キューブの中に閉じ込められていたことに気が付き、脱走を図る。
大変、インパクトがあった。
後の映画に相当な影響を与えていることが分かる。
この映画のシーンを真似たものをよく見る。
間違いなく傑作である。

われわれ誰もが、気づいたら不可視の悪意のある法の支配のただなかに放り出されていた。
勿論、その法(システム)はその共同体~CUBEによって異なるにせよ、トラップ(罰)は多彩で大掛かりな仕組みになっていることは間違いない。
大概の者は、不安に慄く。

誰もが何で自分がこんな目にあわされるのか、と本質的な疑問は抱くも、まずは目先の障害に対処するしかない。
余裕が与えられていないのだ。立ち止まっていれば餓死してしまうだろう。
世界~法は、それ自体の法則で罰を下し機械的に動いているだけ。
こんな時、知はその動く法則を捉えることに役立つ。
ここでは、それが初期においては、「素数」がポイントであった。しかし、それだけでは現実の解読には不十分であった。
今度はそれが「因数」であることに気づき、謎の数値の3つの塊が空間座標を示すことに思い当たる。

これで世界の動きの法則と自分たちのいる相対的位置が判明し、トラップ(罰)の回避も可能となった。
だが、それでこの世界が鮮明になり過ごしやすくなるわけではない。
われわれは気づいた時から、その身体性において極めて過酷な状況~世界に囚われているのだ。
ここに慣れる訳にはいかない。
地獄からはっきり解かれなければ、外部を夢見ながら早晩そこで死ぬしかない。

大きな問題は、人は狭い意味での知のある一定の領域において同調できても、価値の絡む感情的な面では、危機的状況に投げ入れられた者同士で相容れることは難しい。この幻想領域において、個々の肥大した幻想が生理的な面からも互いに強い拒絶反応を示すということだ。
主導権を握った者が自分にとり異質の存在の弾圧・排除に走る。
このシステムの中にあって、機械的トラップで死んだ者は、最初の2人だけである。
その後、死んだ4人は、自分たちの幻想(妄想)を膨らめ、その悪意を相手に投影したうえでの殺し合いによるものだ。
過酷な法によって充分に追い詰められた結果にせよ、殺戮は生の人間同士でなされる。
(それを確かめるための大掛かりな検証システムなのか)。

これの目的も思想も背後の存在~権力も何も分からぬまま(何かのきっかけで)それぞれ無責任な分散された個々の仕事の集積により自動的に組み上げられた巨大な殺戮空間~キューブが構築され、任意に選ばれた人を入れて作動していた。監視はされているのかどうか、、、神の立場は存在するのか。
あっけらかんと。この宇宙の成り立ちみたいに。ただ成立して作動する空間なのかも知れない。
カザンみたいにあらゆる党派、イデオロギーから無縁で、しかしアスペルンガー的特異能力を持ち、世の中から特別な保護が得られる立ち位置というのは、生存にとって有利な気がした。
漫然と生きている場所をデフォルメ~異化して観易い形にすると、その邪悪な異形の姿があからさまになって来る。
それは、人間そのものの姿であった。
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