真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)

「青」について何か書きたいと思い、フェルメールが脳裏を過り、この映画にしました。
全編がフェルメールの絵といえます。
ここまでの絵に作り込んだ監督そしてキャストは素晴らしいという以外に言葉がないです。
美術セット、照明、衣装、時代考証だけでなくセリフのトーン、息遣い、ささやかな物腰にいたるまでフェルメールの絶妙な中間トーンを乱さず進行していました。
ピーター・ウェバー監督。
これが長編初作品!
この美しさを圧倒的な緊張感で支えたのがスカーレット・ヨハンソンの息を呑む透明な美しさ。
徐々に交響詩のごとく重奏する各役者の抑えた静謐な演技が際立ち始め。
画家の妻の激昂や暴力的な振幅も含みつつ、まさに芸術的なエロスが極まってゆきます。
美とエロスとはこういうものか、と今更ながらに納得する香り高い名作です。
一際ヨハンセン演じるところのグリートを魅力的にしているのは、その内省的な演技のみならず、セリフです。セリフについては、それを言うトーン次第でいくらでも綻んでしまう事を演技者誰もが認識して、ひとつの調和したタペストリーにしていることはとても見事ですが、とくに彼女のセリフはその間も含め言うこと無しでした。
雲の色を一つ一つ見出して発する間といい、カメラオブスキュラを始めて覗いて、驚いてする質問と表情、フェルメールの部屋掃除にあたって窓掃除の許可を妻にとるとき、自分の肖像画を見せられた時のことば、、、など。
これはドラマですが、実際にフェルメールもこんな下働きの女性が来てくれたなら、、、椅子が構図上邪魔だと判断し、夜のうちにどけてしまう。フェルメールはそれに気づくが、その案を飲み込みその構図で絵を仕上げてしまう。
構図を考えられる頼もしい助手であり理解者でもあり、雪の吹雪くなかラピスラズリも買ってきてくれ、色彩感覚に優れ、絵の具作りや光も計算に入れた繊細な掃除もしてくれ、モデルもこなせるのなら、、、深い孤独の中にいたフェルメールも、いやこの状況下では余計辛くなりますね(笑、まったく余計なことです。
わたしの一番好きなシーンがフェルメールが窓を開け放ち、こっちへおいでと窓辺に誘い、雲は何色だ?と聞くシーン。あそこから急激にこころが映像の流れに巻込まれていきました。そこから登場人物が様々な強度で絡み合ってゆき、グリートは、本当の助手のようにフェルメールの絵の具作りを隣でします。掃除・洗濯・料理よりもそちらが主体となってゆく。そんななかでの娘からの度重なる嫌がらせ、街の噂、とんでも無いパトロンの仕打ち、にもめげず画家の絵の具作りなどの支援に直向きに献身的に尽くす。これはひとつに彼女の中に眠っていた芸術的才能の覚醒があった。そして、作業中手を触れ合った時にはっきり感じたお互いの恋慕の情。これがそれ以降のドラマの展開の捩れて蛇行する中心線となってゆきます。大変、芸術的な強度をもった精神の触れ合うエロスです。現実的な状況が何であれ、それらを染め上げてしまうエロスです。これは色に例えれば、ラピスラズリです。
破れ目のない美しいフェルメール空間と繊細な演技のトーンが貫かれ「真珠の耳飾りの少女」に恥ずかしくない映画の完成をみています。
つくづく役者とは、何なのかを想う機会ともなりました。
また、時代考証。17世紀デルフトの街が色濃く堪能できました。
スカーレット・ヨハンソン の演技が素晴らしい。
フェルメール役の コリン・ファースも抑えた良いトーンを維持していました。
ピーター・ウェバー監督の実に丁寧な作りこみには感服しました。
これはまさしく最も美しい「青」 ラピスラズリの映画です。

参考までにこのようなものもあります。
(悪乗りか?)


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