空(カラ)の味

2017年
塚田万理奈 監督・脚本
堀春菜、、、聡子
林田沙希絵、、、マキ
インディーズ風の映画であった。
親子関係がすんなり上手くいっているところは、思いの他少ないのでは、、、。
こういう作品を見るにつけ思うところ。この手の題材そして主題はかなり見受ける。
この子の摂食障害が何から起きているのかは知らないが、症状~耐え難い苦痛としてはっきり表出しているのだから、「害」となる原因が日常生活環境に恒常的に存在することは確かである。
最初の方にクラブ顧問の先生への仄かな思慕の念が彼の結婚という現実を前に挫折するが、その程度のストレスでいちいち摂食障害などになっていたらきりがない。これもひとつのトリガー足り得たとしても、それだけ閾の低い精神状態であることが何より問題であろう。
しっかりした(自己肯定と信頼感を)自分に持っていれば、様々な困難に出逢っても精神的に病むことはない。シンドイと感じれば適切な対応が取れ、場合によってはゆっくり休んで自らの力で回復できる。
制御の効かぬ歪んだ方向~衝動へと翻弄されることなどない。

やはりここでは、母娘関係が大きい。
どうしても母と娘は軋轢、葛藤を生じるケースが少なくない。
聡子が母の料理を食べたくない。
食べては吐く。これを繰り返すのは、生理的にも感情的にも母親を拒絶したいことの表れだ。
後にマキという精神科のクリニックに通う自分より重篤な女性と出逢い、初めて自分の内面に抱えたモノを吐露するが、この時にも「吐くことが復讐していることになる」と正直に自らを分析している。
きっとその通りだと思う。
この母を観ると聡子が何かを欲する前に先回りしてそれを用意したり、反発に対し直ぐに泣いて訴えたり、聡子に罪悪感を持たせてコントロールを図るタイプの人間であることが分かる。
母はとかく子供をコントロールしたがるものだ。であるがこの親の場合、子供の自律性~自立を疎外する共依存関係に持ち込もうとしている(すでに持ち込んでいる)。
当然子供が自立~自律的に生きようとすると軋轢が生じる。母の反応の仕方は様々であろうが、この親の場合、怒って恫喝したり、虐待めいた暴言を吐いたりするタイプではなく、憐れみを感じさせるような態度で、逆らうことに罪悪感を抱かせるやり方で絡めとろうとする。そしてこれまで彼女を依存させて、自分の思うままにコントロールして心の安定を図っていたはず。
聡子が何かにつけて「ごめんなさい」を連発するのも、自分の主体性~自律性を発揮すること自体に罪悪感が浸み込んでいるからだろう。彼女の無意識~身体には当然それに反発する強い怒りが煮えたぎっているのだ。
(ここではどうやら父も受験を控えているにせよ兄も母と共犯関係にある。家族のなかで彼女に正面から関わっている人間はいない。いつも心配しているのに何でわたしに相談しなかったのか、などと嘯いてくるところでアウト。偽善的言い訳)。

助けを求める友人がいることは、とても救われることではある。
ここでは、まだ親の庇護下にいる立場である為、その子の家に泊まれることが大きい~条件ともなろう。
少しでも親と家族から距離を取り、自分と親和的関係が持てる他者との間で自分や家族を対象化し、冷静に考える時間はあるに越したことはない。
幸い彼女はその友人宅に泊めてもらい、友人の母も理解のある人であった。
わたしはここで自分の中に溜めに溜めこんだものを友人とその母に洗いざらい喋って聴いてもらうのか、と思っていたら結局何も話さない。友人がアホなバラエティーを観ているのを一緒にぼんやり眺めていたり、、、家にいる時と同様に取り繕って終わり。
彼女のこころを開くには、彼女に共感出来るこころの傷を克服したひとか、それ相応の見識をもつ専門家が要請されるか、、。
実際このようなケースでは、優秀なカウンセラーに親子で診てもらうことが最善に思えるが。
とりあえず独りで医者に行ってみたら、待合でマキという女性に話しかけられ、一瞬で自分より格上であることを察知する。
異様なテンションとぎこちなさ、ちぐはぐな話の内容であるが、聡子はこの女性を信頼した。
無防備で邪念がなく、混乱は感じられるが一途で優しい気持ちに溢れている。
彼女も充分に病んではいるが、聡子を受容し理解できる存在なのだ。
聡子はリミッターを外し自分の胸の内を誠実に語り尽くすと同時に、感情もほとばしり出る。
これでいいのだと思う。
ここから解放~快方に向けて確実に歩み出せる。
やはりこのように他者に向け語ることでしか、自分を肯定し信頼してゆく道はないのだ、と思う。

終盤の河のメタファーはとても感覚的にフィットした。
演出に無理がない。と謂うより、、、
あのシーンには、既視感を覚えた。
(お面を付けて踊るところに何らかの必然性は感じなかったが)。
喰っては吐いてのシーンが余りに続き過ぎた。
そこまで反復しなくても、こちらはその実態は把握できる。
更に滑舌が悪いのか、音声の拾い方の問題か、せりふが聞き取りにくいところも多かった。
その2点でかなりイラついたのも事実であるが、謂いたいことは分かる映画であった。
