マイ・マザー

J'ai tué ma mère
2009年
カナダ
グザヴィエ・ドラン監督・脚本・製作
グザヴィエ・ドラン、、、ユベール
アンヌ・ドルヴァル、、、シャンタル・レミング
フランソワ・アルノー、、、アントナン
スザンヌ・クレマン、、、ジュリー
「僕は母を殺した」
期待して観てはみたが、甘い。
甘すぎる。ほぼ普通の母子ではないか。
それにここに同性愛を持ち込んでくると論点もズレるというか、、、。
(これはハッキリ別問題である)。
わたしの期待とは大きな隔たりがあった。
とは言え、この若さで主演、監督、脚本をこなすというのは凄いものだと思う。
、、、思うのだが、若い。若すぎる。
ここでの少年は16~17の間である。
母親は確かにおかしい。
無意識に常に子供を操作しようとしている。
だが、あれだけ派手に言い合えるのなら、健全だとも思う。
きっと幼年期における関係性は拙いものではなかったのだ。
だから派手に言い合える自律性~自立性を子供が持ち得ている。
批判する主体足り得ている。
これなら、さして問題なかろう。
このまま突っ走って母親の謂うように18になったら、ハイさよならで良かろう。
幼年期において潰されていたなら、母親に根こそぎ取り憑かれてしまっており、反抗などする余地はない。
大人しい内向的だが良い子で通っているはず。ビクビクしながら。
その矛盾~歪みがやがて(ある時突然)外部に向けストレートに爆発するか身体~無意識に発現して何らかの形で病むことになろう。
突発的な暴力か原因不明の精神的病いとして、、、適当に分類、病名が付けられ、日常の文脈に収められるにせよ、厄介な存在として常に迫害、排除の対象とはなるはず。
人は、母親にされたことと同等の扱いを他者からされ続けることとなる。
(わたしが心底侮蔑する途轍もなく頭の悪い品性下劣極まりない犯罪的馬鹿どもにすら、である)。
この悪無限反復の円環にとじ込まれ。
大学の心理学の教授の講義のその部分~片々が何処かでずっと脳裏に鳴り響き続ける。
この宇宙背景輻射として。
ならば基本がマルチバースであるなら、相互作用がないにせよそちらに可能性を探りたい。
この母親だと少年期における操作はかなりして来ていそうだ。
その苛立ちが、母との一見他愛もないような会話のなかで、噴出する。
しかしこう言った爆発がその都度出来ることは、彼が健康的であることを示している。
深層に溜めに溜めて、ある夜むくっと起きて金属バットでは、シャレにならない。
注意しなければならないのは、18以降も母親が依存して来ないかだ。
そうしたら人生滅茶苦茶となる。
世の中には無自覚に相互依存関係を保ったまま一生を過ごしてしまうパタンも多く見られる。
血飛沫を上げてもシャム双生児は引き裂かれ離れなければならない。
善く生きるとは何か、の前提である。
「ヴィオレッタ」の時と同様、映画とはおよそ関係ない噺になってしまったか、、、。間違ってもこの映画に関する内容~知識として拾わないで貰いたい。

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