危険なメソッド

A Dangerous Method
2011年
イギリス、ドイツ、カナダ、スイス
デヴィッド・クローネンバーグ監督・脚本
クリストファー・ハンプトン原作『The Talking Cure』
ハワード・ショア音楽
キーラ・ナイトレイ、、、ザビーナ・シュピールライン
ヴィゴ・モーテンセン、、、ジークムント・フロイト
マイケル・ファスベンダー、、、カール・グスタフ・ユング
サラ・ガドン、、、エマ・ユング
ヴァンサン・カッセル、、、オットー・グロス
フロイト、ユング、にザビーナについては、色々と読んではいたが、映像で観てしまうと、フ~ンこんな感じだったのかな、、、
映像の持つ情報量というより、その制限力に感じ入るところ大きい。
かつて奈良原一光が、「光」という文字からは多様な光がイメージ可能だが、映像でそれを見せられると、もうそれでしかなくなる、みたいなことを雑談で述べていたが、まさにそんなところか。
余りに有名な3者の関係であり、わたしがここでなにやら話しても意味がないのでこれについては、スルーしておきたい。
特に自分なりの感想もない。
(転移、逆転移やシンクロニシティーなんて学生時代、先輩とよく話していたものだったなあ~と郷愁を感じたが)。

ただ、ヒトは意識より圧倒的に無意識に生きていることは確かで、それによる関係性で受苦している。
(フロイトとユングの間にもユダヤとアーリアの無意識的な不信感は横たわっている)。
多くの災難や不幸はそこに発していることは確か。
単に意識で想うこと(内容)に従い楽しく生きていられれば、それはお気楽で良いが、どうにもそうはいかない。
必然的に意識の枠、意識の及ばぬ意識を突き動かしもする領域~無意識、その身体性を考慮せずには、問題や軋轢、齟齬、苦痛を生む場所が見えてこない。
こころについてのこころを考察(内省と遡行)しなければ、何故こういう結果がもたらされたのか、そこからの解放もみえてこない。
内容ではなく形式であり、構造が問題となる。
そういえば、ユングとボルフガング・パウリとの共同研究は刺激的だった。ユングの立ち位置はそちら側だったと本作を観ながらつくづく思う。
リビドーもフロイトのように性に限定したエネルギーではなく、生エネルギーという範囲でみているし、無意識がフロイトの個人的な無意識ではなく、集合無意識である。つまり精神分析ではなく超心理を問題にしている。元型(原始的類型)~シンボルという概念に行き着く。
劇中にもあった超能力的な感覚(感性)の発動する場面。あのラッピング!ほとんどオカルトの世界にも重なって行く~ESP。
因果性では説明不可能な並行性。
夢の役割もフロイトとは異なるものとなる。

決別するまでの、ふたりで夢判断をし合う場面はとても興味深いものであったが、、、。
アメリカに向かう船上。夜のデッキでユングの夢の分析をフロイトがするが、フロイトは自らの夢を自らの権威を守るために語らない。
この映画では、これがふたりが別れる決定打となったみたいに描かれてゆくが、、、わたしは、フロイトの書斎での二度目のラッピングをもって決別となったと受け取っている。
夢は大変貴重なメッセージでもある。
ヒトを飛躍させる啓示となった例も少なくない。
わたしはもっと夢という無意識のビジョンに敏感でありたい。
それから、人々はもっと無意識の危険性に危機感を持たなければならない。
母親の無意識が子供の魂を殺害してしまうことなど、、、表には出ないが由々しき問題である。
この映画の鑑賞を機にいろいろと再確認したいことが浮かんできた。
その意味で、有意義なものだった。
ほとんど映画については何も語っていない、悪しからず。

ザビーナ・シュピールラインの再評価がなされているという。
少なくともフロイトとユングに大きな影響を与えたことは間違いない。
フロイトのタナトスは彼女の論文~考察によって形を成したようだ。
昨日The Flow of Timeの”ワイルドウィンドウシリーズ”にあるコンテンツをひとつ拾って観てみたのだが、5分で寝落ちしてしまった。
まさか5分間の鑑賞で何か書くわけにもいかず、そのまま眠ったらこれまた気持ち良かったので、結局アップできなかった。
朝はいつになく清々しかった(笑。
このシリーズお勧め。
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