ネオテニー

もともと人間は生理的早産によって未熟な形で生まれ親や共同体の保護下に長く置かれます。
その幼児期から思春期までが、大脳が発達し文化的な素地を吸収するための期間となります。
ヒトはその上、さらに成熟するまでの期間を限りなく遅延させようとする傾向が指摘され始めました。
(これってヒトとして当初からあったものなんでしょうか、最近出現を見たものなんでしょうか?)
所謂、ダーウィンの唱えた適者生存ー自然淘汰の適応進化だけでは人間の進化は説明しきれない。それとは異なるシナリオの発動による自律的ー内在的に起こる遅延による変化がみとめられるというのです。
幼生進化とも言えるその説は、ヒトの成人が猿の子供の形態をとる(大変似ている)ことにも着想を得ているようです。
一段階前の生物の幼体にその(次段階の)成体が似る。
幼形成熟ーネオテニーです。
胎内期間を短くして、成長を故意に出来る限り遅らせ、その間に遊びやコミュニケーションその他の様々な関係性を創出する。謂わば、ヒトは「子供に留まる事」に新たな進化の可能性を見出したと言えましょうか。
ヒトという動物としての戦略でしょうか。
恐らくこうなると、脳はさらに大きく発達することでしょう。
個体差あるいは人種・民族差はあるかもれませんが、その方向性は確かかと感じます。
発育において幼児期の形態的特徴がずっと保持される。
「かわいい」文化であるとか、漫画・アニメもそれが照射されている一例でしょう。
ある意味これらは日本から世界を刺激し自覚を促した形ですが、どの国の童話などにも類例は見られるはずです。
また、勿論先鋭的な芸術作品やRock・小説・映画にも傾向が窺えます。
探せばキリがないほどありますし、そのベクトルが何やら加速されている気もします。
いよいよニュータイプの出現か?
(ハッキリそれと分かる飛躍はあるのか?何となくそうなっているのか?)
ピーターパンはいろいろ文化的な傾向・風潮を語るときによく引き合いに出されてきましたが、
ここでも顕著な例として浮かび上がります。
大人になることを拒んでずっとティンカーベルと軽やかに遊び続けています。
そのままピーターパンは性的な成熟体となるのでしょうか、それとも単に大人の体にならないでいるのでしょうか?
フック船長をワニに食べさせてしまうことは、これまでのヒト(大人)に対する象徴的な決別・超脱でしょうか?
日本の三年寝太郎も面白い形でのネオテニーだと思われます。
発現までの期間をあたかも蛹に成ったかのように寝て過ごします。
起きた後の姿も何処か幼児的な特徴を残していることでしょう。
わたしが最近思うのは、与沢翼というヒトもこの典型のひとりに思えるのです。
あまり存じませんが、Vで時折見る限り。
芦田愛菜はこの後どうなるのかも興味あります。わたしとしては、もう完成形のように見えますので。
大人の芦田愛菜は想像できません。
少しこの手の文献を覗いて見ますと、単に体外胎生期をネオテニーに置き換えているものもあり、それでは元も子もない話になってしまいます。さらに少年期は引き伸ばされた!
わたしとしては、成長遅延に飛躍的に拍車が掛かったと見ています。
エルンスト・マッハのような人たちからも、生の目的は、自分の少年期を努力により再現・奪回することであると語られています。ピカソもそれに生涯をかけていました。
これから多くの人々はピーターパンとして凍結するのでは、と考えています。
「結晶世界」が少しづつ出来てゆくのは、素晴らしい光景です。
雪が降ってもすぐにとけてしまいます。
(こんなことを繰り返していてもどうにもなりません)
単なるまやかしです。
すべてがクリスタル化すれば地球もひとつ上の段階に進化することになります(アーカシャ年代記)。

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