ラッキー

Lucky
2017年
アメリカ
ジョン・キャロル・リンチ監督
ローガン・スパークス・ドラゴ・スモンジャ脚本
ハリー・ディーン・スタントン、、、ラッキー
デヴィッド・リンチ、、、ハワード(親友)
ロン・リビングストン、、、ボビー・ローレンス(弁護士)
エド・ベグリー・ジュニア、、、ニードラー医師
トム・スケリット、、、フレッド(海兵隊退役軍人)
ジェイムズ・ダレン、、、ポーリー(エレインのひも)
バリー・シャバカ・ヘンリー、、、ジョー(ダイナーの店長)
ベス・グラント、、、エレイン(バーの店主)
イヴォンヌ・ハフ・リー、、、ロレッタ(ジョーの店のフィリピーナのウエイトレス)
ヒューゴ・アームストロング、、、ヴィンセント(エレインの店のバーテンダー)
一体、リクガメは何処に歩いてゆくつもりなのか、、、
乾いた地が似合うハリー・ディーン・スタントン。あの「パリ テキサス」の地から歩き続けて来たようだ。
そう、テンガロンハットにブラッディ・マリーも似合っている。
家より丈高い柱サボテンが至る所に立っていると、わたしまでウキウキしてくるではないか。
彼は毎日、お決まりの日課を熟している。いつも同じ場所で同じ悪態をつく(笑。物語の最後に、悪態をついていた店が店じまいの看板を出していた。
「パリ テキサス」の主演ハリー・ディーン・スタントンである。90歳。91歳で亡くなる前の、遺作に当たる。
見るからにアイロニカルな気難しい雰囲気を醸しているが、結構可愛らしい。
このブログでも他に、「ワン・フロム・ザ・ハート」、「 ビリーザキッド 21才の生涯」、「エイリアン」で彼を観ているが、光る脇役をキメている。
出演作は多い。だが、主演としては、この最後を飾る映画がピカ一ではないか。
ホントに良い役を自然体で(まるで自分自身のドキュメントみたいに)演じ切っている。
エンディングの歌は彼への賛歌ではないか。~月の光に輝く男~である。
ジョン・ウェインの「ラスト・シューティスト」が彼の遺作であり死に場所を求めた映画であったが、劇中に何度もその「ウェイン」が出てくる(ビビの雑貨店で)。そんなオマージュからして、製作側のハリー・ディーン・スタントンの最後の名作を作るぞという秘めたる意気込みも感じられるものだ。

他のキャストも凄く良い。
デヴィッド・リンチが粋な爺さんを演じ、これまた感動的なセリフを吐くものだから、たまらん。(この映画、名言が沢山散りばめられている)。
なんせ、このハワード、飼っていた100まで、いや200まで生きるリクガメのルーズベルトが失踪して困惑し泣いたりしているのだ(笑。
出てくる人のほとんどがとっても濃い爺さんばかり。
こういう渋くてレイドバックした映画は、たまに観たくなるもの。

独りでいつも、新聞のクロスワードをやっている。クイズモノが好きだ。TV番組もクイズ。
「孤独とひとりは違う」というのも確かだ。自由を奪われては、かなわない。
「現実主義」に拘る。
彼なりのポリシーは、しっかりしている。
だが、独りの生活を大切にするも、行きつけのバーやダイナーでの常連たちとの会話も欠かさない。
電話友達もいる。
この映画の登場人物は皆、こころを震わす良い噺をする。ちょっと惚けた哲学談義も。そんな場面が挙げれば幾つもある。
ハリーに「終活」を説き、それに腹を立てたラッキーが喧嘩を売ったボビー・ローレンス弁護士と、彼が遺言を書くに至った経緯を語り、和解する場面。須らくわれわれは、死と隣り合わせで生きている。その感覚、感性が共感するのだ。
退役軍人のフレッドが太平洋戦争で出逢った日本人の少女の死を前にした神々しいほどの微笑みの美しさを語る場面。ブッティストの笑みであると彼は推測する。その時の心からの笑みの噺はやはり自らも沖縄戦線を経験したラッキーのこころを深く揺すぶる。
リクガメを失ったハワードは、ついにカメの捜索を断念する。「彼()はよく考え、自分の成すべきことをしに出たのだ」「その邪魔をこれまでわたしはして来た」「彼がいつでも帰ってこれる門は開けておくことにする」という境地に達する。

ラッキーは頑固で、いつも憎まれ口をたたいているが、皆に心配されている。
(通りがかりのトラックが必ずクラクションで挨拶をしてゆく)。
結婚もせず、独身で子供もいない。
だが、何の不自由も不満もない。気軽で心地よいのだ。
こういうライフスタイルは今後、増えて行き、ごく普通のものとなるはず。
突然、家で倒れたことから、「死」に対する恐れの気持ちが湧いて来る。
喧嘩を吹っ掛けるも、周りの友人皆に止められる。
ある意味、初めてここで孤独を知った。
ロレッタが見舞いに来てくれた時、初めて死の恐怖を彼女に打ち明ける。
医者に診てもらうが、元気であり禁煙も必要なしという健康体ではあるが、老いは意識せざるを得ない。
(倒れたのは、「光過敏性発作」というところか。デジタル時計の赤い点滅を観ているうちに倒れた。この赤い光は、ポーリーが音楽の鳴る路地裏に吸い込まれてゆくときにも灯っている。彼を追って行くと”Exit”と書いてありラッキーはそれ以上先に進めなかった)。
印象的なのは、次第に仏教的な死生観に傾いてゆくところ。
そして、死を想うことは、過去の回想にも繋がって行く。
少年の時、BB弾で梢のマネシツグミを脅かしてやろうと撃ってみたら、さえずりが止んだ。
その時齎された静寂に身を切られる思いをした。
そんな忘れ去っていた記憶が呼び覚まされてゆく。

フィエスタのパーティに呼ばれて唄ったメキシコの(スペイン語の)愛の歌がそれは素敵であった。
その場にいた客は感動して喝さいをラッキーに送る。
これまでにない笑みを浮かべるラッキー。
そう彼は微笑むことにする。
禁煙のバーで「無」(ウンガッツ)を語り煙草をくゆらし勝ち誇った顔をして出てゆくところ、サボテンを見上げ微笑むところでも、彼の悟り~少なくとも納得を感じた。
リクガメが画面を横切って行く、、、。
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何だかんだと謂いながら、ラッキーはダイナーやバーで多くの常連との語らいを通して認識を深めストレスを解消するなど、健康的な生き方をしていた。
しかし、こうした生き方は今後、ネット環境の更なる充実もあり、なくなって行くと思われる。
ラッキーが時折、分からないことを尋ねる電話をしていたが、そのくらいの距離でだけ繋がる友人関係で維持される共同体が形成されてゆくはず。