アンドレイ・ルブリョフ~タルコフスキー
Андрей Рублёв
1971年
ソビエト
アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
アンドレイ・コンチャロフスキー脚本
アナトリー・ソロニーツィン
イワン・ラピコフ
ニコライ・グリニコ
ニコライ・セルゲーエフ
ニコライ・ブルリャーエフ
イルマ・ラウシュ
1967年製作。カンヌ国際映画祭に出したかと思ったら、送り返されその後6年間タルコフスキーは沈黙を強いられたといいます。カンヌ国際映画祭批評家連盟賞を受賞していますが。
タルコフスキーは数々の弾圧を受けていますから。
大変な時期に悪戦苦闘した芸術家であります。
ここでは歴史解釈で当局に問題視されたようです。
15Cのイコン画家、アンドレイ・ルブリョフを通し創造を巡るタルコフスキーの思想が描かれてゆきます。
「物の本質に迫るには、適切なことばが必要だ」
「畏敬の念から虚飾を廃する単純さが生まれる。」
「知識は悲しみに比例する。」
など、胸に刺さる言葉がたくさん散りばめられながら、この凄まじく重厚で長大な182分の映像が流れてゆきます。
アンドレイ・ルブリョフの苦悩とタルコフスキーの芸術制作の苦悩とが重なって見えてきます。
観終わった後の感動は言葉にならない、とてつもない大作であることは違いありません。
少なくとも、長さでは「アラビアのロレンス」などの名作もありますが、この重みに比較できるものはありません。
ある意味、もっともタルコフスキーらしい作品ではないかと思われます。
背筋に電気の走るような、まさに言葉の真の意味で「畏怖」を覚える映画です。
全編モノクロで撮られています。
作品は10のエピソードに分かれて重奏しつつ進行します。この手法は「鏡」でも見事な成果を見せています。
わたしが一番驚愕したのは、風景です。教会です。
タルコフスキーの映画でも、これだけの土地ー様々な光景を撮っているものは他にはないと思います。
ウラジーミル、スズダリ、ノヴゴロドの古都をロケして編集しているようですが、14Cロシアのイメージを鮮烈に詳細に印象付けられます。
例によってのシャワーのような豪雨、ちらつく雪、まとわりつく泥、粘土、銀、激しく熱い炎、重い鐘、そして鳴り響く鐘の音。
さらにここでは、権力と暴力、異教徒の侵入と迫害、白痴と女性性、圧政と処刑、殺戮に凄まじい労働。ボロ雑巾のような人々、そして飢餓と信仰。腐りゆく林檎。
罪の念に苦しむ、絵筆を折った画家の無言の「修行」はタルコフスキーの内面も同時に痛々しく浮き彫りにしてきます。
全編を通し、遍歴するアンドレイ・ルブリョフの魂の「修行」が描き尽くされてゆきます。
そしてその根底にあるもの、それが「ロシア」です。
何故、これほどまでに「ロシア」なのか。
また、タルコフスキーの作品に登場する俳優には忘れがたい魅力を漂わせる名優が少なくないですが、アナトーリー・ソロニーツィンというアンドレイ・ルブリョフ役の俳優は完全なはまり役だと言えます。
まさにこの映画にはなくてはならない存在であり、この重さを体現出来る俳優がそうはいるはずありません。
主役の抜擢においても見事に成功した映画だと感じます。
音楽も常に過不足なく被さる、共同無意識に訴える原始的な現代音楽。
物語は、大変唐突な農夫たちの作った気球で大空を飛ぶという何故か牧歌的なイントロから始まります。
そして本編と言える、アンドレイとキリールとダニールの3人の僧侶の悪夢のような旅が深く交錯してゆきます。
ロシアの悲劇を巡ってひたすら重く重く展開してゆくのです。
貴族同士の血なまぐさい争いとタタールの侵略、権力者の残虐性、異教徒の暗黒の祝祭と圧政。
そしてタタールから白痴の少女を庇い同じロシア人を殺してしまう主人公の苦悩。
何よりも胸を打つのは、終盤の鐘の鋳造の長い場面ーエピソード。
鐘作りの職人である若者が民衆を巻き込み、激しい情熱をかけて鐘を完成にまで至らせ、それを打ち鳴らした後、泣き崩れる。
それをアンドレが抱き抱え、「よくやった、一緒に行こう、わたしも絵を描く」と最後に誓う。
タルコフスキー=アンドレイ・ルブリョフのロシアとの和解か。
主人公の原郷を見出したかのような穏やかな表情。
後の「ノスタルジア」の本質が垣間見えた。
そう、あそこにも雪が降っていた、、、。
アンドレイ・ルブリョフのイコン画が映し出されてゆく。
1971年
ソビエト
アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
アンドレイ・コンチャロフスキー脚本
アナトリー・ソロニーツィン
イワン・ラピコフ
ニコライ・グリニコ
ニコライ・セルゲーエフ
ニコライ・ブルリャーエフ
イルマ・ラウシュ
1967年製作。カンヌ国際映画祭に出したかと思ったら、送り返されその後6年間タルコフスキーは沈黙を強いられたといいます。カンヌ国際映画祭批評家連盟賞を受賞していますが。
タルコフスキーは数々の弾圧を受けていますから。
大変な時期に悪戦苦闘した芸術家であります。
ここでは歴史解釈で当局に問題視されたようです。
15Cのイコン画家、アンドレイ・ルブリョフを通し創造を巡るタルコフスキーの思想が描かれてゆきます。
「物の本質に迫るには、適切なことばが必要だ」
「畏敬の念から虚飾を廃する単純さが生まれる。」
「知識は悲しみに比例する。」
など、胸に刺さる言葉がたくさん散りばめられながら、この凄まじく重厚で長大な182分の映像が流れてゆきます。
アンドレイ・ルブリョフの苦悩とタルコフスキーの芸術制作の苦悩とが重なって見えてきます。
観終わった後の感動は言葉にならない、とてつもない大作であることは違いありません。
少なくとも、長さでは「アラビアのロレンス」などの名作もありますが、この重みに比較できるものはありません。
ある意味、もっともタルコフスキーらしい作品ではないかと思われます。
背筋に電気の走るような、まさに言葉の真の意味で「畏怖」を覚える映画です。
全編モノクロで撮られています。
作品は10のエピソードに分かれて重奏しつつ進行します。この手法は「鏡」でも見事な成果を見せています。
わたしが一番驚愕したのは、風景です。教会です。
タルコフスキーの映画でも、これだけの土地ー様々な光景を撮っているものは他にはないと思います。
ウラジーミル、スズダリ、ノヴゴロドの古都をロケして編集しているようですが、14Cロシアのイメージを鮮烈に詳細に印象付けられます。
例によってのシャワーのような豪雨、ちらつく雪、まとわりつく泥、粘土、銀、激しく熱い炎、重い鐘、そして鳴り響く鐘の音。
さらにここでは、権力と暴力、異教徒の侵入と迫害、白痴と女性性、圧政と処刑、殺戮に凄まじい労働。ボロ雑巾のような人々、そして飢餓と信仰。腐りゆく林檎。
罪の念に苦しむ、絵筆を折った画家の無言の「修行」はタルコフスキーの内面も同時に痛々しく浮き彫りにしてきます。
全編を通し、遍歴するアンドレイ・ルブリョフの魂の「修行」が描き尽くされてゆきます。
そしてその根底にあるもの、それが「ロシア」です。
何故、これほどまでに「ロシア」なのか。
また、タルコフスキーの作品に登場する俳優には忘れがたい魅力を漂わせる名優が少なくないですが、アナトーリー・ソロニーツィンというアンドレイ・ルブリョフ役の俳優は完全なはまり役だと言えます。
まさにこの映画にはなくてはならない存在であり、この重さを体現出来る俳優がそうはいるはずありません。
主役の抜擢においても見事に成功した映画だと感じます。
音楽も常に過不足なく被さる、共同無意識に訴える原始的な現代音楽。
物語は、大変唐突な農夫たちの作った気球で大空を飛ぶという何故か牧歌的なイントロから始まります。
そして本編と言える、アンドレイとキリールとダニールの3人の僧侶の悪夢のような旅が深く交錯してゆきます。
ロシアの悲劇を巡ってひたすら重く重く展開してゆくのです。
貴族同士の血なまぐさい争いとタタールの侵略、権力者の残虐性、異教徒の暗黒の祝祭と圧政。
そしてタタールから白痴の少女を庇い同じロシア人を殺してしまう主人公の苦悩。
何よりも胸を打つのは、終盤の鐘の鋳造の長い場面ーエピソード。
鐘作りの職人である若者が民衆を巻き込み、激しい情熱をかけて鐘を完成にまで至らせ、それを打ち鳴らした後、泣き崩れる。
それをアンドレが抱き抱え、「よくやった、一緒に行こう、わたしも絵を描く」と最後に誓う。
タルコフスキー=アンドレイ・ルブリョフのロシアとの和解か。
主人公の原郷を見出したかのような穏やかな表情。
後の「ノスタルジア」の本質が垣間見えた。
そう、あそこにも雪が降っていた、、、。
アンドレイ・ルブリョフのイコン画が映し出されてゆく。
参考記事
「鏡」を観て~タルコフスキー
SOLARIS~タルコフスキーが気になり
NOSTALGHIA
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