サーミの血

Amanda Kernell(アマンダ・シェーネル)監督
Sameblod
2017年
スウェーデン、デンマーク、ノルウェー
アマンダ・シェーネル監督・脚本
レーネ=セシリア・スパルロク、、、エレ・マリャ(クリスティーナ)
マイ=ドリス・リンピ、、、老年のエレ・マリャ(クリスティーナ)
ミーア=エリーカ・スパルロク、、、ニェンナ(エレ・マリャの妹)
ユリウス・フレイシャンデル、、、ニクラス(恋人)
ハンナ・アルストロム、、、教師
オッレ・サッリ、、、オッレ(エレ・マリャ(クリスティーナ)の息子)

アマンダ・シェーネル監督の言葉を偶然拾ったが、まさにこれ以外の何ものでもなかった。
「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を少女エレ・マリャ視点から描いた物語です」
これに尽きる映画であった。
主人公の少女が何歳なのか分からなかったが、まだかなり幼い年齢であることは推察できる。
彼女はサーミ語を話すラップランド人であり、トナカイを飼いテントに暮らしコルトという民族衣装を着てヨイクという歌を生活の中で唄うスウェーデンの少数(先住)民族である。
彼女は、サーミの地(故郷)~血(ルーツ)を嫌っていたとは思えないが、勉強が好きで成績も良く、進学したいことを先生に相談したところ、とんでもない答えが返ってきたところで、全てを捨てて「外」に出る決心をしたのだ。親や妹を捨ててまで。
「あなたがたの脳は文明に向いていないの。だから進学は出来ない」
「街に出るときっと絶滅してしまうでしょう」
「伝統を継ぎなさい」
呆気にとられる返答であった。しかし科学的に検証されているなどと、どこからでてきたのか?
理不尽な差別以外の何ものでもない。教育(教師)は何処にあっても暴力として機能する場合が実に多い。

それまでも様々な差別に耐えながら頑張って来たが、ここで完全に気持ちが固まった。
彼女は、エレ・マリャという名を捨て、クリスティーナと名乗り、アイデンティティの更新を図る。
サーミ語を封印して(ヨイクも唄わず)スウェーデン人として生き直す。
汽車に乗ってダンスパーティーでかつて知り合ったニクラスを頼りに都会に出てゆく。
だが、この投企に無理はなかったのか。
社会的権力関係において劣勢を強いられていたにせよ、彼女の民族自体が(能力的に)劣っていた訳ではあるまい。
(ユダヤ差別と同様に)。
そして先住民族としての誇りも。
(アメリカインディアンと同様に)。
寧ろ秀でた特性を疎外することになっていたかも知れないではないか。

はじめ拠り所とした彼氏が、何とも優しいが頼りがいのない大学生であった。
何不自由ない多数派のノンポリである。
漠然としたクリスティーナの憧れの像であっただろう。
この脱臭された何もない場に自由と自立を感じるのは無理もなかった。
しかしそこに根付くことには無理があったに相違ない。
この男性のように生きられるはずもない。

妹のニェンナは謂わば、エレ・マリャの影の存在か。
彼女の身代わりに故郷に留まった分身のような存在であった。
この物語は、この妹の訃報を受け、故郷に嫌々戻るところから始まるが、それまでの回想~内省を通して最後には妹(の亡骸)にしっかり向き合い、許しを請う。
自由と誇りをかけて真の自立を求め「外」へと出て行ったが、そこが自らの求める場所であったかどうか。
彼女がクリスティーナにはなれなかったことは確かであろう。
差別される側から差別する側の共同体に入り込んだところで何も解決するものではない。
但し、選択の自由~機会は存在したはず。まさにそれの為に飛び出したのだ。
その結果が、どれほどのものであったか、老境に達した彼女の重い表情が全てを語っているのでは。

レーネ=セシリア・スパルロクという若い女優~子役か?の存在感が際立った。
裸体になる場面があるが(あれは資料作りの為のものか、まるで動物扱いであったが)、バルテュスの絵に描かれる少女にそっくりであったことに驚く。わたしにとって異質な血~ルーツを強くかんじるものであった。
本来、この異質さ、多様性そのものこそが生にとってもっとも大切なものであるはず。
これを双方の陣営が押さえておく必要があるのだ。
いや、、ほんとにそうなっていれば、問題は基本的になくなる。
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