林忠彦

「決闘写真」と彼は自らのポートレートを呼んだ。
よく目にする文学者のポートレートは、ほとんどこの人の撮ったものであることを知った。
(画家のものもある)。
一対一の存在を賭けた真剣勝負。
撮るまで、かなり長い時間をかけるという。
晩年は風景写真に移ったそうだ。
しかしそれも尋常な風景ではない。
「風景的人物写真」という(林氏の定義)。
わたしにとって新たな観念だ。
結構、NHKの日曜美術館とコズミックフロントネクストは、勉強になる(バラツキはあるにせよ)。
今回もそこから。
彼にとっては、ポートレートを撮ることは、被写体に決闘を挑む行為であったという。
まさにシャッターを「切る」間を巡る勝負か。
風景を薄暮の頃合いを見て撮るときも、侍みたいな掛け声をかけてシャッターを切っていた。
その絶妙な光の具合。
まさに「光画」というに相応しい。

わたしにとっては何と言っても文学者のポートレートであるが、、、
作家それぞれの個性、世界観、ひととなりを見事に捉えているものばかり。
ひとつは太宰治のバーのスツールに胡坐をかき、誰かと談笑しているショットである。
栞にその写真が印刷されていたものを持っていたものだから、本を読み終わるまではそれとなく眺め続け、それを「太宰治」としていつしか馴染んでしまっていた。(それ以前は文庫本のカバーに印刷された如何にもナイーブで内向的な感じの写真であったが)。
ある時、彼は誰と話し込んでいるのかな、と本を閉じる際にふと思ったことがあった。
(その時は、話し相手は多分バーのマスターかなと感じた程度であるが)。
今回の番組で、その答えが知らされるとは夢にも思わなかった(これだけでも番組を観る価値はあった(笑)。
その話し相手とは、何と坂口安吾なのだ(彼はわたしの大好きなサティの「ソクラート」の日本語訳もしてくれている)。
そして、太宰を撮る前に、撮影したのがそのすぐ近くに座っていた織田作之助(「夫婦善哉」の作家)であった。
何というゴージャスなバーだ。この時代を代表する無頼派トリオ?が一堂に会する店とは、、、。まあそういう店だから林忠彦も網を張っていたのだろうが。
こんな機会に勝負をかけない分けにはゆくまい。

もうひとつとっても気に入ったのが、その坂口安吾の自室でのポートレートである。
作家は普通、自分の書斎はなかなか見せてくれるものではないという。
余程の人間関係を結ばないとまず無理と言うものだ。
(わたしも友人の書斎はとても興味があり、家にお邪魔すれば無理を言って見せてもらうが)。
その執筆中の安吾の姿は彼の妻でも見ることの出来ないものであったそうだ。
これは快挙である。いくら見ても見飽きないそれは凄まじい混沌とした(エントロピーがピークとなった)部屋だ。
こういうところで、書いていたのだなあ、あの「堕落論」をとか、「桜の森の満開の下」とかを、、、と思うとホントに感慨深い。
実に感慨深い。

他にも川端康成のポートレートを徐々に間合いを詰めながら撮って行き、ついに20年間かけて傑作をものにするなど、凄い執念である(粘着気質でもあるか)。面白いのは、谷崎潤一郎にこれで撮影を終わりますと言って、彼が気を抜き素で微笑んだところをすかさず別のカメラで表情を切り取ったという写真も趣深い。そういう騙し討ちも「決闘写真」のひとつに数えられよう。

そして晩年の風景に対峙した写真であるが、、、
天候、つまり光の具合や時には雨などに強く拘って、その場を狙ったそうだ。
同じ場所に7回趣き、まさにこの光だ、というところでシャッターを切る。
人はその場にいないが、これまでにそこを通った人々の視界を追体験するような写真というか光画である。
確かにポートレートも顔だけで成り立つものだけでなく、環境ポートレートと呼んでもよい、彼の内面を饒舌に表す周囲の情報を纏ったものが多い。
そこから特定の人を抜き取った形のものが、彼にとっての風景写真=「風景的人物写真」なのだろう。
江戸時代の旅人の記憶を覘くような、、、。

この写真家の作品は、これまで知らぬうちに、かなり目にしてきたことに改めて気づく。
破格の値段で5つ★ホテルと豪華な食事の愉しめる旅を! 東京オリンピックまでに自由を手にする無料動画
- 関連記事
-
- 奈良原一高
- 田淵行男
- 林忠彦
- マジックアワー PreⅡ
- ボンヌフの恋人