音についての存在学 断片補遺2

ジョンケージは体内音によるレコードを作りました。InnerSpaceMusic
また、街でふとわれを忘れ、耳を澄ますと、いかに多くの音が弾け合っていることでしょう。
スマートフォンのボイスレコーダーで録って歩くと、思わぬ音を拾いまくることになるでしょう。
私たちの日常は、音を遮断することで成り立っているようなものです。(障害から音の遮断が困難なヒトもいます)
音マップの編集はきっと面白い私たちの街を現出させることでしょう。
中学生の夏休みの宿題にどうだ?!
私たちは無音には耐えられません。いかに視覚が支配的な環境にあっても。大気がないと生きれないように。
写真からも音を聴いている。
ウイン・バロック、アンセル・アダムスらは特に音楽の聴こえる写真を撮る作家として讃えられています。
”ニューメキシコ上空の月”(アダムス)
音の聞こえる写真100選まとめ!
中学生の夏休みの宿題にどうだ?!
いや、私がやりたい。
音は自らが発するものである以上に、「外部」から来臨します。
「外部」とは、あくまでも意識の外部(自己の外部)です。
Rock、現代音楽、クラシックにせよ、音を自己の表出という次元で扱ったものは、「表現」止まりと言えます。自己(人間)中心に置いた表出は、それがどのようなものであれ暴力・権力になります。制度にも成り得ます。
制度とは限りなく多様に持続している音ー律動の中から「特定の音」のみ限定して聴かせる暴力です。
ジャック・デリダは「音声こそが意味である」と述べます。音声しかも自分の声です。
ヒトは内語ー独言を黙っていても喋っています。その内なる声を根源的直感として本質を語ります。
しかしその声は、言語によってつくられた意識という産物になぞられます。それは意味・価値という排除・限定に他ありません。
「同じ民族は同じ現実を見る」とエドワード・ホールは説きます。同じ民族とは、同じ音声ーことばー意味を共有するものたちです。現実とは、ことばによって差分され(分節され)有機化されたものを指しますから、当然同じような現実に関する共通感覚を有するはずです。そして同じ事柄を好み(正義とし)、同じ事柄に生理レベルから嫌悪感をもつでしょう。美的感覚から宗教観まで。
よく言われることに、日本人は西欧人が非言語脳(右半球)で処理している動物や虫の声や感情音を言語脳(左半球)で言葉として処理している、ということがあります。そのメカニズムをみると日本語の母音性(西欧は子音です。)とさらに表意語と表音語との差が見逃せないという説があります。表意文字はひとつの意味(音声)よりも多義性、物質的な形態性をもちます。さらに母音は前後の子音の影響で音が変わります。(決まった音を持たない)一方、西欧の表音文字は、音声ー意味に結びやすい透明さを特徴とします。子音性とあいまって人工的で直接性をもっています。前者は構造化、論理体系の構築には不向きでも直感を「よびこむ」性質をもっているようです。後者は、引っかかりなく輪郭のシャープな線の引ける機能をもち、構造を捉える上で有効だと。
古くから日本人は自然に溶け込んで短歌や俳句を作ったり、輪郭のぼけた水墨画や遠方の景観をそのまま自分の庭つくりの一部として取り込む(借景)等、開かれた技芸(アルス)に秀でていました。西欧は常に分析のための対象化をすべての物事において行ってきました。形而上学的な距離(空間)を何においても設定してきたのです。その意思は一神教(たった一者の眼差しー声)の構造を動かぬものにしました。構造はそのままで、やがて神の場には自己が置かれー近代的自我の成立(人間中心主義)、そして貨幣の元にはすべてのものことが平等ー市場社会の成立、というように抽象的な中心を元に世界的な文明が築かれました。
絶対的な存在としての自分がおり、その周りを客観世界が取りまく、と言う世界観が崩れたのは、その世界を支えてきた制度的根拠である科学という思想が、量子物理学における「観測の問題」にぶち当たってからでした。20世紀初頭です。究極の素粒子を見つけようとする過程で、観測対象が観測者の意思によって変質してしまう状況が表れたのです。電子の運動量を測ろうとすると位置が確率的になってしまい、位置を測ろうとすると運動量が不確定になってしまう。観測とは光子(フォトン)をもってするのですから、猫を見るのなら確定的な観測が可能であっても、光子によって明らかな影響を受ける素粒子については、観測者の意図ー精神次第で対象が変わってしまうのです。
見ることは宇宙の生成に不可避的に関与してしまうこと。
では、聴くことは。
これもどう聴くのかにかかってきます。
かつて日本では風鈴にあの舌の部分がなかったそうです。
つまり鐸(さなぎ)の部分だけだったわけです。そういえば銅鐸がまさにその形ですね。遠方の山の向こう(外)から自分の内にやってくる神々の音連れを軒先に下げた鐸を震わせる幽かな気配音によって知ったと言われます。
また、「音」という文字は「日」が「立」つと書きます。日が東の地平線に立ち昇ることが「音」だと。
太古、日本人は日の立つ音を文字通り聴いていたととるべきかも知れません。しみじみと或いは畏敬の念を持って。「聴くこと」自体、変質してきているはずです。
「創造的なミュージシャンを私流の比喩で言えば”ラジオ受信機”となる。決して”放送局”ではない。」(ロバート・フリップ)
内語を聴くのに耳は使いません。本当に耳を使うこと、これは極めて創造的な行為になるはずです。
「聴く」というより「成る」ような。巫女のように。
人は自然界の音そのものを聴くのは不可能だそうです。何故なら、誰もが耳から音波(1000~2000ヘルツ)を出しており、その音と外界の音とが干渉し合って生じるパタンを音として聴いているようです。となると音を音として真に聴いているのは少なくとも耳ではなく、脳、いえ精神と言えます。
聴覚は皮膚から耳が発生したように、感覚の中で視覚とは対照的に受容的な器官です。しかし参照波を常に発し、触覚で物を捕らえるように音を捉えています。その音は空間的に構築されます。
スピリトゥスは大気という意味でもあります。
「地球大気の組成と温度は驚くほど安定しているが、大気が生命圏そのものと何らかの繋がりが在ると想定しない限りその説明はつかない。つまり、大気は地球上のありとあらゆる生命の総体と結びついている。」(ジェームス・ラブロック)
大気層まで含めた地球の全体をひとつの巨大な生命圏(ガイア)と捉えるラブロックに習えば、私たちは大いなるスピリトゥスの中の数々の鐸のような存在でしょう。(ある人は鐸ではなく竹輪だと言っていましたが、確か糸井重里だった、意味は同じでしょう。)
内なる鐸が幽かに騒ぎます。

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THEME:博物学・自然・生き物 | GENRE:学問・文化・芸術 |