病院で死にたくはない!

哲学を死の練習と定義したのはプラトンか?
魂の永遠性を説くプラトンなら当然のこと。
魂の永遠性を信じて平然と死ねる。ソクラテスのように?
それが哲学だと。
動物と違い?ヒトは自分が死ぬことを知っている。
しかし、死が何であるかは誰も知らない。
だから死は観念以上でも以下でもない。
死は曖昧なぼやっとした不安として付きまとう。
大概そこから思想めいたものが立ち上がってくる。
死を一度考えると不可避的に生が逆照射される。
人生の最初と最後には自分の自由がない。
しかしそれ以外は自分の意思を貫いて生きようともする。
無理やり最期だけは自分で支配しようとするヒトもいる。
しかし
手足の自在性があるものだから、そこからの類推で生が自由だと思っているだけかも知れない。
そもそもヒトに自由などあるものか?
そこも怪しいものだ。
なるようになるではなく、なるようにしかならない。
ヒトは観念の動物であると吉本隆明が言うとおり、徹頭徹尾観念で生きている。
いや幻想の中に。
どのような幻想を生きているか。
それは何に帰属しているかを意味する。
だが不可避的にパラダイムに内属してしまうとしても、
今はそれほどすべてを内包してしまう透明な枠があるとも思えない、、、
それがパラダイムというものだといえばその通りだが。
言語の限界か?
せめてアナキストでありたい。
アナキストとして死にたい。
死んでも医者のスピリチュアルケアなど受けたくない(笑
勿論、延命処置など論外!
昨日、叔父が亡くなった。
わたしの父のすぐ下の弟だ。
家で亡くなった。
脳出血だそうだ。
わたしも家で死にたい。
父は病院で死んだが。
わたしは絶対に嫌だ。
明日、雪をかき分けてお通夜に出席することになる。
わたしは受付を頼まれている。
今年になって叔父に会って話をゆっくりすることはできた。
少し前にあった時と比べ随分衰えを感じた。
突然事故などで死ぬ(生を中断される)より、ゆっくりしかしはっきりと自覚しつつ死にたい。
叔父は確かにそのようにして亡くなったと想える。
墓碑銘にこんなものがある。
「次はお前だ」

にほんブログ村
