羽生結弦選手に感銘を受ける。

以前美としての身体表現 エレーナ・イシンバエワのところで、技を競うスポーツの美について感想を書きました。
今回は、羽生結弦選手に圧倒され、何か書いてみようかとおもいます。
まだ圧倒されたままなので、何がでて来るかは分かりません(笑
エレーナの棒高跳びは大変美しいものでしたが、それにはアーティスティックインプレッションの項目はありません。
勿論、採点になくてもその要素は十分にあり、飛び越すということは必然的にフォルムの美しさが要求されます。
スタートからバーをまたぎ終わるまでの完璧な流れの美がなければクリア・成功しません。
謂わばこの美は、スポーツ全般における優れたアスリートの見事な競技に普遍的に見られる美と括れましょうか。
しかしフィギュアスケートは、スポーツにカテゴライズされてはいますが、上のスポーツ一般とは異質なものを感じます。それはバレー(クラシックバレー、モダンバレー、その他の舞踏)が芸術とされスポーツではないことにおいて。
つまり、フィギュアスケートと同様に新体操、ばあいによってはシンクロナイズドスウィミングにも感じるものですが、これらもすべて演目の主題をいかに表現するかというもの(競技)になっています。
ここにおいては、他の表現芸術と変わるものはありません。
バレーも美を表現するため大変な技術を要求され採点もされます。
フィギュアはそれを氷上で行い、新体操は手具を使って、シンクロは水中で、と方法を変えていますが、いかに主題を的確に美しく身体表現するかの点では形式的には同じではないかと思われるのです。
まずスケートというスポーツがあり、そこに後からスピードを競う他に美しい滑りを磨いたらどれだけのものになるか、というかたちでフィギュアが入ってきたのでしょう。
体操競技を手具を使ってさらに幅広く美しい表現を取り込めないかとか、
シンクロに関しても水泳競技に美を追求する競技として加えられたものではないかと思われます。
これは実際の正しい歴史を述べているのではありません。
構造上そういう形になっていると考えられます。
やっていることは、氷上のバレーと言ってもよく、表現芸術としても充分通用するレベルにありますが、起源がスケート競技であって、スポーツから拡張・派生したものであるから今もスポーツなのかと勝手に想像しています。他についても。もしバレーを氷上でやったらどうなるかというところからフィギュアが生まれたのなら、絶対に表現芸術として行われているのが自然だと思われます。
スポーツか芸術かは見ているわたしのような素人にとってはどうでも良いことですが。
美しければ感動できそれで良いのです。
ただスポーツの方が雰囲気的にも親しみやすいですし、競争があからさまに主となれば見る方も熱中できます。
それについてはサッカーなどが最たる例ですね、まさに熱狂ですから。
フィギュアスケートや新体操を静かな厳粛な会場で鑑賞するのも充分アリだと思います。
プロのアイスショーやエキジビションなどはむしろそちらですからね。
両者の違いは観客側の捉え方の違い、応援の仕方・姿の違いに収斂されそうです。
アーティスト=アスリートのやってること自体に本質的な違いは感じられません。
羽生結弦選手ですが、そう彼について語ろうとしていたのです。
彼の演技が、何か国を背負った代理戦争のような旗振って応援するようなものには感じられず、
ただ観戦でなく鑑賞に値する美しい表現に思えたので、こんな話になったのだと思います。
今日は何書くかまったく考えていないままに書きましたので、この辺にしておきます。
*この時点で羽生結弦選手はSPで1位です。フリーが楽しみです。(久々のスケートTV鑑賞)

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